きままな雑記帳

ごく普通のあんちゃんのきままに記す日常日誌

演劇と飯と居酒屋と・・・思い出の街『下北沢』 東京都世田谷区

2019-12-14 13:46:08 | まち歩き
ここ数年、下北沢駅、小田急の下北沢駅が地下化と複々線化に伴い、ずいぶんと昔とは雰囲気が変わってきたという風の便りが届きました。

私が知る下北沢は駅が地下化し始めた頃の2016年頃までのお話ですが、ちょいと懐かしいもので昔話でも今回は書きたいと思います。

まずは下北沢。



下北沢駅を中心にかなり広い範囲ですが、私のお話は主に駅周辺のお話。

まずは下北沢ってどこにあるでしょうか?

答えは東京都世田谷区にあります。路線は小田急線と京王井の頭線が交差するターミナル駅ですが、駅自体はさほど大きくはありません。

シモキタエキウエが誕生!進化した下北沢駅の様子


小田急線下北沢駅付近 地上最後の日 運転台車窓


【実況さんぽ】下北沢駅周辺を歩いてみた【タピオカブーム終焉!?】 Walking around Shimokitazawa Station


1990年の下北沢駅と駅辺り Shimokitazawa Station 901222


1992 下北沢散策散歩 Shimokitazawa Walkabout 920208


東京都下北沢での夜間散歩 - 4K 60FPS


新旧の小田急と下北沢の動画がありましたので添付しましたが、街の雰囲気や電車などの雰囲気は平成初頭の頃のほうが活気というか雑多な感じがありますねぇ。

現代になるとやや落ち着いた感じがします。

私が下北沢界隈を歩き回っていたのはまさにその端境期。

駅近くの演劇小屋である「駅前劇場」や「本多劇場」「スズナリ」などで演劇を鑑賞し、
















腹が減れば『農民カフェ』で飯を喰い、





まったりとしたくなれば、『kate coffee ケイトコーヒー 』で本を読みながら珈琲を味わい、





夜になれば駅近くの立ち呑み屋『ひげちょうちん』でお酒をひっかけ、









帰るのが億劫になれば、下北沢にあるカプセルホテル『ミナミ』で宿泊し、





じっくりと風呂と朝飯で英気を養ってから、再び仲間たちとバカみたいに遊びまわっていたもんでした(笑)

なので、一日中下北沢という街に居てもどこかしら立ち寄れる場所がありますので、まずは飽きない街の一つでしたねぇ。

町田も似たような雰囲気はありますが、さすがにここまで劇場とかは見当たりません。

日常と非日常を味わえる街という感じが下北沢には感じますね。





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居酒屋『ひもの屋』の思い出 干物と日本酒は乙ですよ  台東区

2019-12-11 08:47:02 | 食・レシピ
今回は上野界隈で仕事してた頃の思い出話です。

もう10年程前になりますかねぇ、上野界隈にある会社で働いていた頃に通ったお店があります。

それが『ひもの屋』さん。



ここでのランチは私にとっては至極のひと時でしたねぇ。



蒲田西口のひもの屋


じっくりと焼き魚でご飯と味噌汁を味わいたいと感じたランチには、意外にこういうタイプのお店って少ないものです。

当時でたしかランチが1000円近くしたかと記憶にありますが、それを支払っても納得の味です。

ランチも美味しいのですが、本来は居酒屋さん。

なので夜にもお邪魔いたしました。

上野アメ横 一夜干し料理 ひもの屋 Dried food Himonoya overnight


いやぁ、ビールに干物の合うこと!!







和食メインなのでヘルシーですし、飲み食いしていて落ち着きがあるのがいいですね。

仕事仲間と、仕事の打ち上げなどで利用したものです。

半個室のような感じのテーブル席もありましたので、和気あいあいとできるのも魅力の一つでした。

ちょっと久方ぶりに東京まで出かけて、『ひもの屋』さんに入店してみようかしら・・・と思う師走です。





かに通販専門マルゲン本店












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相模大野にある焼き肉と落語のお店『焼き肉 八起』 相模原市南区

2019-12-08 15:47:36 | 相模大野という街
今回は相模原市南区相模大野にある名物焼き肉店『八起』さんのお話です。





地図をご覧になってもわかるように相模大野は焼き肉激戦区でもあります。

ここを訪れたのはもう13年近く前になる2006年頃。

以前から気になっていた焼き肉店ということで友人とともに入店したのです。

伝説飯に八起が出ました!


とにかく賑わっていて、煤が濃い店内。雰囲気は昭和です。



ここの名物女将と会話を楽しみながらの注文。

焼肉 八起き at 相模大野


しばしお肉を待っている間、落語などの情報が貼られてるポスターなどを眺めていると、そこには意外なものが。



あれ?これってどうでしょうさんでは??

女将に伺ってみると「そうだよ、あたしはねぇ、好きなのよ。大泉さん!!」

へぇぇ、神奈川県はどうでしょうファンが多い(テレビ神奈川でも放映されているからか)のですが、なんとここにもそのファンがいらっしゃるとは思いませんでした。



しばし女将とどうでしょう談義に花を咲かせた後にさっそくお肉を賞味いたしました。

予約殺到!焼肉八起で一人焼肉!


うん、旨し。

注文したビールともまた合います。

キレイな焼き肉店もいいんだけども、たまには昭和な感じのいかにも焼き肉店という雰囲気のお店で食事をしたいと感じる昭和育ちの方にも居心地の良いお店でしょう。

お肉とビールを堪能しながら、女将の落語から学んだのかテンポ良い語り口を肴に私の脳裏にはどうでしょうのオープニングソングが流れていたのでした。

水曜どうでしょう オープニングテーマ


また行きたいなぁ、八起!!

生協の宅配パルシステム






ムームードメイン







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経済からみる歴史・お米がお金として価値のあった時代

2019-12-07 18:05:02 | 社会・経済
今回は経済からみてみる歴史のお話です。

ふと、日本で貨幣が流通したのはいつ頃からなのだろう?と思ったのです。



国産で製造したのは和同開珎。

奈良時代だったかの時代だったと記憶してますが、平安時代初期頃まで通貨を自前で鋳造したものの、おそらく銅などの生産がふるわずにそのまま減るにまかせて、物々交換の経済になっていったのだと思います。

それを平安時代後期、ひそかに当時の宋王朝との貿易で宋王朝の銅銭を輸入し、貨幣として価値を見出したのが平清盛。

平氏は瀬戸内海の海賊鎮圧や西国への国司などを歴任し、宋王朝などの外国と交易しながら経済力をつけていき、武力と経済力を背景に日本を改革しようとしたのだと思います。

その一端が平安京から福原への遷都だったり、交易を盛んにして国力を高めようとしていたのでしょう。

同時期に東北でほぼ独立勢力を築いていた奥州藤原氏も北方民族などと交易をして経済力をつけていました。

ところが、ここに新興勢力として関東に力をつけてきたのが源頼朝。

彼の政策は武士の生活を守る、権利を守ることが基本。武士の財産は土地。そして商業よりも農業に重きを置く政策でしたが、これが関東の武士達の望んでいた政策だったのでしょう。



鎌倉幕府ができると交易も継続はしてますが、平氏時代よりはおとなしめ。

やがて室町時代になり、再び貨幣としての銅銭を大量流通していきます。永楽銭などの明王朝の銅銭です。

室町幕府は貨幣など経済を比較的にも重視した武家政権だなと感じるのは、関所を設けて流通税を徴収したり、商人への間接税などを徴収して財政を賄っていたことです。

幕府の直轄地は混乱などで管理できない状態だろうに、どうやって財政を賄っていたのかと考えたら、京都などの住民税や流通税、間接税など様々な方法で税金を徴収していたのです。

で、当時は武士などの所領などの広さなどを表す言葉は「貫高制」でした。



貫というと重さなどを表す言葉ですが、これは銭の重さにも使われていました。

まだ紙幣などはない時代、銅銭の重さなどで表現していたのでしょうね。

やがて戦国時代末期、織田信長や豊臣秀吉などが天下統一していくと、徐々に単位の表現も変化していきます。

それが石高制です。



江戸時代はまさにこの「石高」によって武士の収入を表しています。もっとも知行地を持たない(土地経営しない)武士は蔵米扶持として「俵」(ひょう)の単位で表します。

たとえば「〇〇万石」や「〇〇俵〇〇人扶持」と表しますが、これは米の生産高やもらえる米の量を表しています。

江戸幕府は完全に米中心経済の政権ですので、武士へのお給料も基本は米。

これ、戦国時代などの戦乱の時代ではカネよりもコメのほうが価値がありますから当然なんですが、平和な江戸時代まで武士の給料は基本的にお米だったわけです。

もちろん、お米だけ食べてるわけではありません。武士は基本的には消費者ですから、商品を購入します。

購入する際は当然に貨幣を利用しますが、ではいつ貨幣を持つのでしょう?



これは米を年貢として受け取り、または蔵から支給された際に何割かは時価でお米を現金に切り替えることもできました。大名などは大阪などに蔵を用意し、お米を販売して現金に切り替えています。

そして株相場のように米相場があり、お米を取引しながら貨幣に切り替え経済を回していたのが江戸時代なのです。

当時は小判なども流通。





でも東日本では金、西日本では銀が主流で価値観も異なっており、そのために両替商が多数存在していたのです。

当時は地域通貨として「藩札」も流通していました。これは地方自治体の藩が独自に発行し、藩の中だけで通用する地域通貨です。

明治時代になり版籍奉還や廃藩置県を各大名が賛成したのも、賄いきれなくなった藩の財政を明治政府が受け持ってくれるとしたからで、米はあってもお金がないというのが当時の武士だったのでしょう。

で、幕末の開国した際、当時はただの漁村に過ぎない横浜を開港地としたのは、経済力で江戸を圧倒していた大阪を少しでも見返したいという幕府側の考えもあったのだそうです。

横浜を巨大な出島として貿易の場とすれば、江戸から近いので幕府としても管理がしやすく江戸も商売が繁盛するだろうと。

大阪の近くの神戸が開港地として選ばれてるのも、外国から大阪という商人の街の魅力があり、直接大阪にすると混乱すると言い訳しながら神戸ならいいよと妥協したようにみせかけ、神戸も幕府が管理しながらも、じつは横浜にかなり力を入れたかったのだとどこかの本を読んで、歴史のまた違う一面を観た思いでした。

明治時代になり、地租改正などを実施、これは検地が米などの収穫量を把握するのが目的なのに対し、地租改正は米などの現物を税として納めるのではなく、金納に切り替えるために土地の価値をお金に換算して調査した事業なのです。

こうして日本の税はモノではなくカネで納付されることになったのでした。

お金から歴史を眺めてみるのも新鮮でいいもんですね。

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古代のアベノミクス・減税と公共事業の仁徳ミクス

2019-12-05 01:54:30 | 社会・経済
いくつか読んでた本に、古代エジプトのピラミッドは農閑期の雇用対策の側面があったという記事がありました。

ピラミッドに匹敵する古代の建造物を日本で探せば神社や古墳。



仁徳天皇陵とされるこちらの古墳などが思い浮かびます。

ちなみに仁徳天皇といえば『民の竈』のお話が有名です。

ある日、仁徳天皇が宮殿から眺めると、民の家からご飯時なのに炊煙が上がらない。

この状況をみた天皇は、税を免除したという逸話です。

これには続きがあり、税を納めるようになっても、天皇はしばらく税を受け取らず、皇居が傷んでも税を受け取ろうとしなかったので、民衆は税を受け取るようにデモを起こしたというお話があります。



そんな仁徳天皇の古墳。

これは当時の公共事業として、雇用対策と治水等の事業を兼ね備えた事業だったのではないか?という説もあります。

当時の大阪周辺は湖などが多く、水害の多い場所だったようで、治水及び利水事業を実施するためと宗教的な古墳、そして農閑期などの雇用対策としての公共事業を兼ねての経済対策事業たったのではないかという説があり、私もその可能性はあるのではないかと思います。



20年ごとの式年遷宮なども技術の伝承もありますが、おそらく公共事業の側面があって開始したのではないかと思いますし、そう考えると古代から政治って実施していることはそうは変わりません。



アベノミクスならず減税と公共事業の『仁徳ミクス』の事業だったのかもしれませんね。







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