エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「2月中旬」

2015-08-01 07:55:49 | アイデンティティの根源

 

 ウツに対する態度が、その生まれ育った人のお天気によって変わってくるんですね。人はいろんなものに影響されますね。でもね、その自覚があるだけで、影響のされ方そのものが変わってくる場合もありますよ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p215の ポエムから。

 

 

 

 

 

     Der Sommer ist hart fuer der Tuer(夏が戸口まで来てる)

              Der Winter ist vergangen(冬は過ぎ去った)

              Die zarten Blumen gehn herfuer;(か弱い花も眼の前にある)

              Der das hat angefangen(ひとたび始まったこと)

              Der wird es auch vollenden.(それは、必ずや「出来た」と言える)

 

 この詩が言っていることは、「冬は過ぎ去った 夏はもうすぐそこまで来てる」、「花も咲きだした 春が始まるようにことを始めたものは誰でも、必ず『出来た』と言える」 

 

 

 

 

 これは季節のことを言っていると思うでしょ。違うんですね。これは根源的信頼感のことを言ってるんですね。日本人でも同様な詩を書いてますのでご紹介しますね。ただし、再掲ですよ。

 

 2月中旬   

                            内村鑑三

 

雪は降りつつある。 然し春は来りつつある。 寒さは強くある。 然し春は来りつつある。

 風はまだ寒くある。 土はまだ堅くある。 青きは未だ野を飾らない。

 清きは未だ空に響かない。 冬は未だ我等を去らない。

 彼の威力は今尚我等を圧する。

 然れど日はやや長くなった。 温かき風は時に来る。

 芹は泉のほとりに生えて、魚は時々巣を出て遊ぶ。

 冬の威力はすでに挫けた。

 春の到来は遠くない。

 

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軽蔑と自己嫌悪

2015-08-01 06:10:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪究極の見通し≫が非常に大事なことがお分かりいただけたと思います。日本人は一般的に、それがないのが弱点です。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p64の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私どもの心理社会的な結論を振り返ることを完成すること。すなわち、もしも、wisdom 「闇の中に光を見つけ出す叡智」に対して反感がこもった対になるものが、軽蔑ならば、こういった軽蔑が(あらゆる反感がそうであるように)、人間がもつ弱さやら、腐敗や虚偽が致命的に繰り返されてしまうことやらに対してあるのも、当たり前で必要な反応としなくちゃなりませんよね。現実に、軽蔑が否認されるのは、間接的ではあっても、破壊的で、大なり小なり、自分でも気付かない、自己嫌悪の、例の危険がある時だけでしょうね。

 

 

 

 

 人って、自分の違うこと、特にその違いを理解できない場合、軽蔑することがよくありますね。でも、逆に軽蔑があると、軽蔑している、その相手を理解しようとする努力は怠りがちになりますよね。すると、ただ嘲るだけになる。あるいは、何とか打ち負かしたいと思うだけになる。

 しかし、自己嫌悪が隠れてて、自分でも気付かない場合は、その傾向に拍車がかかります。その場合は、エリクソンが言うように、その軽蔑は止めるようにして差し上げなくてはなりません。本人も気付かない自己嫌悪がありますとね、それはすぐに、これも気づかぬうちに、「人間を上下2つに分けるウソ」の毒牙に、無意識裡にやられてしまいます。そうしたところに、あらゆるケダモノの悪行、腐敗、策略、ウソとゴマカシ、そして、人殺しが圧倒的でコントロール不可能な形で進むわけですね。

 アベシンちゃんと悪魔の仲間たちは、その悪のカラクリに、すでにはまっている、悪魔の仲間たちです。

 

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「ダヴィデに」

2015-08-01 02:07:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「二月六日、木曜日にダヴィデが死んだ。」この一文で始まるエッセイ「ダヴィデに」は、5ページほどの極々短いエッセイです。しかし、ここには、人間にとって、非常に大事なエッセンスが書かれているので、須賀敦子さんの文書の中で、一番好きなエッセイなんですね。

 ダヴィデとは、このエッセイを書いている時から遡ること30年前に、須賀敦子さんがミラノで働いていた共同体、「コルシア書店(コルシア・デイ・セルヴィ書店)」の創業者にして修道士。この書店は、カトリック教会であるサン・カルロ教会の軒を借りた書店でした。 そのダヴィデが、このエッセイ「ダヴィデに」を含む本『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)が書き終わろうとした時に、死と言う終わりを告げた不思議を、須賀敦子さんは語ります。

 真実は、内側から湧き上がって来ることもあれば、向こうから勝手にやって来る場合もあるんですね。いずれにしても、自分のコントロールの下で、真実を作り出すのじゃぁない。真実は、私とは独立して存在するんですね。須賀敦子さんの場合も、ダヴィデの死という形で、真実が向こうから勝手にやってきた、という訳ですね。

 しかし、須賀敦子さんが言いたいのは、それだけじゃないんですね。私も同じです。須賀敦子さんが自分の理想を思い描いたコルシア書店を失った。それはダヴィデを始め、コルシア書店の仲間たちも同じだった、と須賀敦子さんは言います。しかし、人間は理想を実現するための共同体を失って、初めて分かることもある。それは、こういうことなんですね。

 「その(コルシア書店の仲間たちの)相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣り合わせで、人それぞれ自分の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、少なくとも私は、長いこと理解できないでいた。

  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを怖れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

 

 

 そして、生まれたのが、この「ダヴィデに」ですし、『コルシア書店の仲間たち』です。

 上手く出来てるでしょ。

 

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