エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人生が始まるのは、40になってから  ?

2015-08-12 08:38:59 | アイデンティティの根源

 

 無意識の猛毒にやられること、無意識の虜になることが怖いのは、それに気が付かないこと。いわば、顔が真っ黒の汚れているのに、ニコニコ笑って愛想を振りまいているようなもの。心理臨床家でなくても、そのニコニコ笑顔よりも、真っ黒々の顔が気になりますでしょ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.218の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 修道院の方法の中には、あらゆる自我の危険に、生の形で相対さなくちゃならない最前線に降りていくものがあります。ここでは、傲慢な良心も、祈りのおかげで満たされるわけですが、衝動も、苦行によって飼い馴らされ、現実からの圧力も、その現実そのもので、自分を確かにさせることを体系的に止めてしまうことで、打ち負かすことができます。しかし、本物の修道生活とは、発達するのに時間がかかりますし、自我が成熟してはじめてできることなんですね。ルターが「30才になるまでは、誰も修道生活に決して入ってはならない」と後年言ったのはなぜか、ルター自身知ってのことでした。

 

 

 

 

 傲慢な良心、悪い良心や、衝動、現実からの圧力に対処するには、それなりの自我の強さ、自我の訓練が必要です。しかも、実地での訓練でないと意味がありませんでしょ。ですから、ルターは30才になってからと考えたのでしょうね。その訓練が出来るのは。でもね、今の時代はルターの時代と比べても、特に日本では、非常に困難な状況ですよね。ですから、ルターが30といった年は、今は40かもしれませんね。

 悪い良心、衝動、現実からの圧力は、日本では、組織の同調圧力という形になることが非常に多い。それに対処するほど、本当の自分を組織化するには、ユングの教えに従っても、40になるまではむずかしそうですね。

 つまり、日本では、「人生が始まるのは40になってから」、ということでしょう。

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それまでの人生が問われる「大人の時代」

2015-08-12 08:00:14 | エリクソンの発達臨床心理

 

 未来を上手に思い描くこと、それは、出来るだけ多くの人、出来れば、全人類が含まれるほどの、ヴィジョンを持つことです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p67の12行目途中から。

 

 

 

 

 

generativity 「次世代を育むこと」になるのか? それとも、self-absorption 「自分のことしか考えないこと、人の立場を一顧だにしないこと」になるのか? および、stagnation 「未来をうまく描けないこと」になるのか? と言う二律背反から生じる、新しい「力」、すなわち、Care、「弱い立場の人を気に掛けること」とは、自分がcare for「気に入った」人、もの、考えをtake care of「大事にすること」に、幅広く心を込めてすることです。赤ちゃんの頃から若い成人期になるまで、以前の舞台で順番に発達することから得た、すべての力(hope  「困難があっても、信頼し続けること」,will 「困難があっても、自分の意志を保つこと」,purpose 「困難があっても、『何のためにするのか』を忘れないこと」,skill 「困難な状況でも使える技能」,fidelity  「困難があっても、信念に忠実であり続けること」,love 「弱い立場の人を、自分が損をしても、大事にすること」)は、次の世代の人たちの力を養うという、次世代を育む仕事のために、欠くことにできない力になります。というのも、この次世代を育む力こそ、実際、人間の人生の「貯蔵庫」なんですから。

 

 

 

 

 いつの舞台でもそうですが、成人期の「力」は特にそれまでの人生の舞台で得てきた力が問われます。言葉を換えれば、次の世代を育む力は、それまでの人生が問われます。エリクソンのライフサイクルの理論が、いかにたくさんな人生から学び、実際の人生に役立つために考えられているのか、ハッキリと分かる所ですね。

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無意識が子どものまんまの「大人」

2015-08-12 03:15:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
道を誤る源、不確かな取引
  本気の約束ほど、今の日本で求められているものはありません。当世日本に大流行のウソとゴマカシの対極、それが本気の約束だからです。 p333の第4パラ...
 

 今日は、「大人なのに、子どものまま」というテーマです。

 これには、非常に肯定的な意味と、非常に破壊的な意味があると私は考えます。

 まずは、非常に肯定的な意味。「大人なのに少年の様だ」と感じたのは、前にこのブログでも記しました、野村實先生です。私が初めてお目にかかったのが、1986年9月ですから、1901年生まれの野村實先生はすでに80代半ばでした。それなのに、少年のような感じの方でしたね。物静かで、非常に素直で、しかも、時に畏れ多いほど、真実に率直だということです。実に爽やかな印象の方です。結核医として治療をする中で、病気を治すだけでは、足りないと考えて、リハビリという言葉もない時代に、社会的に元患者が生きていけるようにと、全国に先駆けて、東京コロニーを設立したわけです。また、シュヴァイツァーを尊敬して、その研究誌を発刊するほどの傾倒ぶり。お仕事の上でも、学問の上でも、非常に偉い方なのに、偉そうなそぶりは微塵もない。むしろ、「慎み深い」ということが適当な方です。根源的信頼感が豊な人の、1つの形は、野村實先生だと確信しますね。野村實先生は確信に満ちているからこその、「慎み深さ」と「率直さ」という二律背反の共存。私どもも、野村實先生のような人格に少しでも近づきたいものですね。

 たほう、非常に破壊的な意味。これはユングに参照したいと思います。ユングの第8夜。今晩は、ユング著作第10巻( Collected Works of C.G. Jung, Volume 10: Civilization in Transition )『転換期の文明』pp.29-49にある Mind and Earth 「頭と地の球」から。

 ここで、ユングは大人になれない「大人」について、次のように言います。

「男でも、女でも、子どもの頃に理想化した親のイメージに、(いつまでも)無意識のうちに影響されればされるほど、自分が大事と思って選ぶ相手は、両親の肯定的な身代わりか、両親の否定的な身代わりになるに、決まってます。子どもの頃に理想化した親のイメージが将来にわたって影響することは、異常なことと見なしてはいけません。これは逆で、普通のことですから、極々よくあることなんですね。子どもの頃に理想化した親のイメージの影響は将来に亘るのが当たり前とすることは、非常に大事なことなんですね。さもなければ、両親がその子どもたちの中に生まれ変わることもないし、子どもの頃に理想化した親のイメージは、完全に失われてしまいますから、個人の人生の筋もなくしてしまいます。その人は、自分の子ども時代を大人になってからの暮らしに結びつけられないので、無意識裡には子どものまんまです。それは、しばしば、不安神経症のもとになります。」(前掲書,p.39)とね。

 これは、ユングに言わせれば、子どもが両親と結婚している状況なんですね。

 ここから解放されるためには、そのイメージに新しい血をそぞくことが大事になります。それは、先日このブログで取り上げた、教師の役割ですし、本物の心理教育です。ですから、子どもに、心の中の囁き、「新しい、素晴らしい道に行け」という囁きがあることに気付いてもらうことが、非常に大切になります。

  

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