無意識の猛毒にやられること、無意識の虜になることが怖いのは、それに気が付かないこと。いわば、顔が真っ黒の汚れているのに、ニコニコ笑って愛想を振りまいているようなもの。心理臨床家でなくても、そのニコニコ笑顔よりも、真っ黒々の顔が気になりますでしょ。
Young Man Luther 『青年ルター』p.218の第3パラグラフから。
修道院の方法の中には、あらゆる自我の危険に、生の形で相対さなくちゃならない最前線に降りていくものがあります。ここでは、傲慢な良心も、祈りのおかげで満たされるわけですが、衝動も、苦行によって飼い馴らされ、現実からの圧力も、その現実そのもので、自分を確かにさせることを体系的に止めてしまうことで、打ち負かすことができます。しかし、本物の修道生活とは、発達するのに時間がかかりますし、自我が成熟してはじめてできることなんですね。ルターが「30才になるまでは、誰も修道生活に決して入ってはならない」と後年言ったのはなぜか、ルター自身知ってのことでした。
傲慢な良心、悪い良心や、衝動、現実からの圧力に対処するには、それなりの自我の強さ、自我の訓練が必要です。しかも、実地での訓練でないと意味がありませんでしょ。ですから、ルターは30才になってからと考えたのでしょうね。その訓練が出来るのは。でもね、今の時代はルターの時代と比べても、特に日本では、非常に困難な状況ですよね。ですから、ルターが30といった年は、今は40かもしれませんね。
悪い良心、衝動、現実からの圧力は、日本では、組織の同調圧力という形になることが非常に多い。それに対処するほど、本当の自分を組織化するには、ユングの教えに従っても、40になるまではむずかしそうですね。
つまり、日本では、「人生が始まるのは40になってから」、ということでしょう。