エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自分の未解決の個人的課題に気付ける時

2015-08-26 08:32:33 | アイデンティティの根源

 

 新しい時代精神は、良い良心を経て、もともとは悪い良心から生まれるらしい。良かったですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルター神学は、未解決の個人的課題を含んでいます。その課題は、神学そのものよりも、精神分析の方が近道です。この未解決の個人的課題がハッキリしてくるのは、人生行路が急に変わって、自分を確かにさせる道が危うくなった時でした。ルターは説教をする者として、伝道する者として自分を確かにする道を手に入れたわけですけどね。いっそう個人的課題がハッキリするのは、中年期の危機のために、心の中に秘めていた自己嫌悪が前面に現れてくる時ですし、詩篇の講義では、うまくバランスを取れたし、それがルターを講義をする者として自分を確かにさせたんですが、反抗するのを死ぬほど我慢できないことが、前面に出てきてしまう時です。

 

 

 

 

 ルターは、悪い良心の塊のような父親のために、子どもの頃から我慢に我慢を重ねてきましたでしょ。憤懣やるかたない激しい怒り、殺したいくらいの憎しみを心深く秘めていたんですね。日常にそんな感情が現われれば、危険極まりないでしょ。ですから、その気持ちを出すのも我慢してたんですね。でも、人生航路が変わったり、人生最大の危機である中年の危機のために、それが表に出る場合があった。危険なお年頃ですね。でも、それは、自分が今まで気付かなかった、自分の課題に気付けるときでもあります。

 人を裁きたくなったり、「許せない!」と不機嫌になるのは、その相手に「課題」があるというよりも、あなたの「未解決の個人的課題」のせいです。それには早く気づけて、解決できると良いですね。そうすれば、自ずから悦びが湧いてくるからです。

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心の広い大人=自他を認める力が大きい、 心の狭い「大人」=?

2015-08-26 07:56:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 この「エバッタ態度」ほど、子どもたちにとって迷惑なものはありません。そういう人に限って、すぐに「◎◎に迷惑でしょ」と他人に対して、言いたがりますけれどね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p70の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 でもね、mature aadulthood 「心の広い大人」って、若い大人の頃にできるものですよ。それを心理・性的に言い換えれば、「心の広い大人」になれるかどうかは、青春時代の後に性的にも成熟することが、心からやり取りすることに、本能的なエネルギーを注ぎ込むことを模範にできるか否か、にかかってます。お互いに相手を価値ある存在と認めるというバカデッカイ 力が、人が大人になるまでの、危険なほど長い期間が過ぎた後で、人がも心も一致させる中に現れます。

 

 

 

 

 心の広い大人は、自他を認めることが、身体と身体の触れ合いにおいても、心と心の触れ合いにおいても、自ずから現れます。そうなれば、みんなが嬉しいですね。皆が喜んでいるのか?にも配慮が行き届きます。

 心の狭い「大人」(そういう人は、大きな人の字に値しないので「」を付けてみました)は、少なくとも、他者を認めないことが、増えますから、そもそも、身体と身体の触れ合いも、あんまりなければ、心と心の触れ合いも、とっても少ないですね。極々狭い内輪だけを大事にして、その「外」にいる人には、嘲ったり、陰口をこぼすもんですね。そんなことをすればするほど、自分の心は狭くなるのも知らないで…。

 心広く、心大らかにありたいものですね。

 

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宝の山   子どもの微笑みと新しい仲間感覚

2015-08-26 07:14:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
無知の知 田中千穂子先生
  矛盾律は難しすぎですね。老子は好きなんですけどね。 p69第2パラグラフ。   ...
 

 昨日、2年前のブログ「「新しい人」になれた! 子どもの笑顔  大江健三郎」の人気がたまたま良かったので、それを原文で読み返してみたんですね。2番目に翻訳したSeeing is Hoping「見て知るは望見ること」の1節ですね。遊びの定義として、プラトンの「跳ぶこと」が出てくる文書でした。

 これを訳したときには、あまり気付かなかったものの、今回読み直してみて、改めて気づいたことがありました。

 それは、5才の黒人少年のロバートの積み木を分析する件です。ロバートの積み木遊びは、1つの実験だというんですね。何の実験かと言えば、「自分を確かさせる道」を新たにする実験だという訳ですね。ここまでは、分かっているつもりでした。今回改めて読んで気付きを与えられたんですが、その「自分を確かにさせる、新しい道」には、a new sense of community 新しい仲間意識が伴う、ってわけなんですね。この「新しい仲間意識」が新鮮でしたね。 

 これは、内的なことと、外的なことが繋がっていることを示していると考えます。言葉を換えますとね、心の中で受容できる部分が広がれば広がるほど、心の外側で、仲間として受容できる人の輪も広がる、ということです。だから、自分を確かにする道が新しくなれば、新たに受容できる人の輪も広がりますから、「新しい仲間意識」が生まれるという訳ですね。

 このブログで繰り返し申し上げているように、人は「人間を上下2つに分けるウソ」に陥りがちですし、その毒にやられがちです。些細な諍いから、ジェノサイド・戦争に至るまで、この「人間を上下2つに分けるウソ」が無意識に関わっていないケースなど、ありゃしません。人は意識しなければ、すぐに「人間を上下2つに分けるウソ」に毒牙にやられます。「自分を確かにする、新しい道」は、意識の深まりに伴うものですから、それだけ「人間を上下2つに分けるウソ」から解放されて、拡大された「新しい仲間意識」が生じた、と言い換えることもできるでしょう。

 私にとって、エリクソンの文書は、何度読んでも、新しい気付きを与えてくれる、宝の山です。

 

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