エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもを「悪い良心」から守るお仕事

2015-08-31 07:44:39 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、教科書が教えているほどには、反抗的じゃぁなかったみたい。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.222の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターは、得意になって改革者の役割を果たしました。ルターがどうやって、自分を確かにさせる道を変えたのか、(ルターは、修道院の沈黙を選ぶことによって、ルターが世俗世界の指導者になる、という父親の願いを否定してきた)それを私どもは、素描したにすぎません。しかし、ハッキリしているのは、マルティンが父親から厳しく育てられたことによって、気の毒なほど悪くなっちゃった、悪い良心が、悪い良心の常として、自分が厳しくされたように、他者に対して厳しくできるチャンスを、今か今かと待ち構えていた、ということです。

 

 

 

 

 悪い良心が怖いのは、これなんですね。ルターのようなひどい育ちをした人は、意識の上では、良い子育てをしようとすればするほど、結果的に子どもを身体的に、心理的に虐待している、ということが、非常によくあることですね。私が今まで関わった学校で、そういうケースがなかった学校はひとつもない、と言えるほど。しかも、その大人が、親ばかりではなく、月給をもらっている教員の場合も少なくない訳ですね。

 悪い良心をホッタラカシにできないのは、餌食を探している点です。クリニカル・サイコロジストの大きな役割の一つは、その「悪い良心」から子どもを守ることなんですね。

 

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目標の共有

2015-08-31 05:06:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 分かち合う生き方が良いもんだという確信を持って生きていたいものですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p71の 下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

少なくとも、発達が展開する際の基本になる、高い目標があります。しかし、さまざまな背景のある人たちが、自分自身や子どもたちのために、新しい状況を作るやり方を調整しなくちゃならないのも、この発達の舞台です。この新しい状況は、慣習が(ゆっくり、あるいは、急激に)変化することを反映し、歴史的変化がもたらす、自分を確かにさせる中心的なパターンも変わります。

 

 

 

 

 高い目標があればこそ、一致することができる訳ですね。新しい状況は、今までのやり方、慣習が変わりますし、自分を確かにさせる中心になってきたパターンも変わります。いままでのやり方にこだわりがちな人間がそれをやるのですから、それだけ高い目標に対する合意が必要ですね。

 

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義務教育と大人の責任

2015-08-31 04:32:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
一行三昧
アインシュタインの創造主 : 遊びとイメージ2013-08-30 02:00:55 | エリクソンの発達臨床心理&n...
 

 義務教育については、納税の義務とともに、国民の二大義務と言われます。しかし、社会福祉の携わってきた者としては、国民の義務はもう1つ、子どもが虐待されていることを知った場合、それを児童相談所などに連絡することも、国民の大事な義務であることもお忘れなく(児童福祉法25条、児童虐待防止法6条、http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/dv12/03.html)。国民の三大義務、義務教育と納税の義務と、虐待されている(と思われる)子どもを見つけた場合の通告義務、と覚えておきたいものですね。

 今晩は、義務教育と大人の責任を考えます。

 そもそも義務教育とは何か? これは「子どもが学校に行くのが義務だ」とする誤解があることは驚きですね。私どもの生活と憲法が結び付いていることをご存知ない方ですね。憲法を一度も読んでないんですね。憲法26条の2項に

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

とある訳ですね。つまり、大人が子どもに教育をプレゼントすることが義務なのであって、子どもは、学校に行くのが義務じゃない、むしろ、自分のポテンシャルを大人から引き出してもらう権利がある訳ですね。

 こう考えると、今の学校を考える上で、いくつかの視点を得ることができますよね。子どものポテンシャルを引き出す、と言う点を今晩は焦点付けして考えます。

 それじゃぁ、子どもを学校にやっただけでは、義務教育の義務を果たしたことにならない点に注意が必要ですね。なぜならば、学校が、子どものポテンシャルを引き出すことになってない場合があるからです。その場合は、どうすりゃいいの?

 そういう学校の場合は、まずは、「学校に行かない」という選択があることを子どもに伝えることでしょう。「不登校のすすめ」です。イジメがあるとかないとかに関わらず、「学校なんぞには行くな」と言ってあげることですね。

 しかし、これは緊急避難的なことですから、本質ではないと私は考えます。学校が子どものポテンシャルを引き出すものになってない場合、children first チュードレン・ファースト 「子どもら優先」を徹底していくことですね。子どものポテンシャルを引き出す組織に、変えていくことが何よりも必要ですね。

 私は、クリニカル・サイコロジストですから、まずは、教員の意識改革と態度改革ですね。先日「「エバッタ態度」は子どもにとって、大迷惑!」でも申し上げましたけれども、「エバッタ態度」の「形ばかりの礼拝(関わり)」をしている人の意識と態度を変えることですね。

「「形ばかりの礼拝」には、“嘲り“と“不機嫌な表情“がつきものだということですね。それか特色です。「本物の礼拝」は、溢れるほどの悦びに満ち満ちていますから、自ずから微笑みが溢れますでしょ。嬉し泣きの場合も結構ありますよね。でも、「形ばかりの礼拝」では、そんな悦びは基本的にございませんし、不満と不安がつきものですから、自分が「上に立つ」ことをしたがります。それが「エバッタ態度」になるんですね。その人たちは、気の毒なことですが、「エバッタ態度」をして「上に立つ」時だけ、一瞬しか、生きている実感が持てないからなんですね。

 こういう人は、「弱い立場」の人がすぐ近くにいる仕事を無意識に選びたがります。なぜなら、「弱い立場」の人でしたら、自分が「上に立つ」のも簡単ですからね。ですから、こういう中身のない「エバッタ態度」の人は、教員、保育士、医者、大学教授、看護師など、教育、福祉、医療など、弱い立場の人を相手にする仕事を、無意識に選びたがります。」

 この手の教員が、残念ながら、少なくないし、管理職にも平気の平左になってますから、その人たちの意識と態度を変えてもらわなくては、子どもが救われません。

 それから、さらには、看護師、保育士、社会福祉士、臨床心理士を常勤配置することでしょうね。今のように、教員だけが常勤で、その他の臨時の教員と社会福祉士や臨床心理士は非常勤という、公的な差別処遇を撤廃していくことですね。こんな差別処遇を公的に是認している状況は、民主主義に悖るものですからね。

 このように、学校を変えていくのが、大人の責任です。

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