エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

拡大版の自己中が、「狂気の無責任」を生み出します 改訂版

2015-08-15 12:13:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
透明の絵
 本物の見通し2013-08-14 04:06:48 | エリクソンの発達臨床心理 ...
 

 ユングも、エリクソンに勝るとも劣らないくらい、人の心を深く知っていることが分かります。日常生活の中で常人が考え付かないことを、この2人が考えるに及んだのは、2人とも、重たい精神障害・ビョーキと同様の心の闇を体験し、そこから回復してきた人たちだからですね。

 ユングの著作集から、また折を見て、人間の心の深み、心の不思議を皆さんと一緒に考える機会を設けたいと思います。その時をどうぞ愉しみにしてくださいね。

 今晩は、敗戦の記念日に、丸山眞男教授と共に、日本人の政治意識と、民主化のための方法論をご一緒に考えたいと思います。それも、昨晩のユングが、日本人の集団心理が「狂気の無責任」となる点を指摘していたところを、政治学、政治思想史の立場から、考えたいと思います。

 1つ手掛かりになるのが、丸山眞男教授が岩波新書の『日本の思想』(学生時代に買ったものが、本棚に見つからないので、Amazonで買い直しました)の第Ⅲ章の「思想のあり方について」に出てきます。そこでは、組織を2つに分けて、「ササラ型」と「タコツボ型」に分類します。「ササラ型」の組織は、ササラが一本の竹先を細かく裂いてはいるけれども、一本の竹であるに違いなのと同様に、いろんな組織が、根っこで1つに繋がっている組織のことです。それに対して「タコツボ型」の組織は、一つ一つが孤立していて、その間に往来がない組織のことです。日本の組織は、「タコツボ型」の組織で、横に繋がっていない、というのが丸山眞男教授の分析です。「タコツボ型」の組織では、そこでしか通用しない言葉が語られ、そこでしか通用しない理屈が、まかり通ってしまいます。「井の中の蛙、大海を知らず」どころか、「隣の蛙は、何するものぞ」となる。お隣にさえ話せないことが、組織の中では堂々と語られ、それがよしとされて、「良いことをしている」ことになっちゃう…。

 これは、今も生きている分析です。残念なことですが、今は丸山眞男教授が分析した50年前の日本と比べて、いっそう「タコツボ型」化が進んでいる、と言わざるを得ません。それは、東電や東芝、行政組織などが、自分の組織の組織防衛に終始していることです。しかし、それは、組織を超えた価値を知らないから、だけではありません。日頃から、組織以外の人と、話もしてない訳ですね。話をするのは、自分と同じ組織、同じ立場の人と、だけで、外部の人と話すのも、商売や取引をする時だけ。だから、組織以外のことや、お客の立場や、会社の社会的使命などは一顧だにせずに、「組織のためだから」「会社のためだから」という、拡大版の自己中をやれるわけですね。それは、組織や会社に同調することが自分の利益になるからそうしているのであって、本質は、エゴイズム、利己主義、自己中でしょ。この拡大版の、自己中こそが、無意識の暴力が、個人の運命を弄ぶほどの猛威を振るう温床になる訳ですね。

 しかも、やっているご本人は、それが、無意識の暴力が物を言う「人類に対する犯罪」(ハンナ・アーレント)を犯している、なんて自覚は、全くお持ちでないところが特徴なんですね。むしろ、ご本人たちは「良いこと」「社会人として当然のことをしている」とお考えです。内省とは無縁の生活が長いからですね。そんなウソを信じられるのは。自己中と、無意識の暴力にさらされていることには、全くお気づきでない。それに、「会社のためだから」「組織のためにやれ」と言われて、それに「NO」と言うことが、いかに困難なことか、を考えたら、拡大版の自己中が、意識の力ではなかなか止められないことが、分かりますよね。自分では、なかなか意識できない、気付けないことと、たとえ気づいて、意識しても、意識のコントロールが効かないのが、無意識の2大特色なんですからね。ですから、「組織のため」「会社のため」ということが、「狂気の無責任」の始まりです。


 ですから、組織内にしか通用しない言葉を使ったり、ましてや、組織内でしか通用しない理屈をこねくり回したりするのは、大変まずい「人類に対する犯罪」(ハンナ・アーレント)です。むしろ、組織を超えて、さまざまな人とお付き合いし、組織を超えて、さまざまな職種・さまざまな年齢の人の話を虚心に伺う。そういう生活をしていることが大事ですね。

 その意味でも、いつまでも遅くまで職場にいるように生活をしてたんじゃあ、ダメでしょ。

 

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本物は、なんにもしないところから・・・。

2015-08-15 10:20:15 | ハンナ・アーレントの真実

                       本物の信頼は、エバーグリーン!

 

 ルターは鼻が利くからでしょう、ミセカケやゴマカシは、お嫌いでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターが感じていたのは、当時のキリスト教界が、パウロのキリストに対する信頼やキリスト自身の信頼を忘れ去って、「ユダヤや、トルコや、ペラギウス派の」考えに戻っちゃった、ということです。特に、彼らが、以前に決まった儀式を後生大事にすることを強調した点ですね。私どもは、ルターがローマで、天国行の切符を、無料有料に関わらず、必死で集めてたことを知れば、ルターが何に本気だったか? が分かりますでしょ。ルターは後に、この態度を風刺画的に言ってますよね「その時の私は、聖ヤコブに、ローマに、エルサレムに、あれやこれやと、助けを求めてひた走ったかと思えば、聖ブリギッテに、あれもこれもと、お祈りし。今日も明日も断食したかと思えば、あっちでもこっちでも、懺悔の告白をしに行っては、この人あの人にお伺いを立てる…。それでも、心からの平安が得られませんでした」とね。

 

 

 

 

 

 心に平安がない人が、やる典型ですね。いいえ、心の中に、自分でも分からない、深い不安と激しい怒りがある人の典型だ、と言うべきでしょうか。静かに立ち返ることを知らないんですね。静かに立ち返る、その良さを知らないんですね。 

 そこに、儀式という形に囚われる温床が出来るんですね。何かをすることが、平安に繋がると誤解してんですね。何かをすることが、信仰だと誤解してるからですね。間違いですね。 

 逆説に聞こえるかもしれませんが、なんにもしないことが信頼です。敢えて言えば、本物の信頼は、何もしないところから生まれます。神様の恵みだからですね。けれども、信頼が与えられると、漲る力が湧いてきますから、自ずから行動が生まれてくんですね。その行動だけ見ていると、その行動が、信頼(信仰)と誤解しやすい。でも、間違いですね。

 本物の信頼は、なんにもしないところから、静かにしているところから生まれます。神様の恵みだからですね。

 

 

 

               本物の信頼は、エバーグリーン!

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人の痛みを自分の痛みにできる、大きな優しさ

2015-08-15 09:12:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 内省しているから、すなわち、自分自身と対話が出来るから、いろんな人とも対話ができる訳ですね。逆も真なりで、内省してないと、自分自身と対話がありませんから、いろんな立場の人とは、対話もできない訳ですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p68最初から。

 

 

 

 

 

 stagnation 「異性や異世代と対話が出来ず、支配したり、ホッタラカシにしたりすること」は、あらゆる人生の舞台のアンチテーゼと同様、この舞台でも中核的な心の病の特色となりますし、もちろん、以前の舞台での葛藤に退行することも含みます。でもね、これは、この舞台特有の重要性もあるんですね。これは、お示ししましたように、今日的な重要性が特にあるんですね。「性的な不満」が病的だと考えられる時代ですからね。それなのに、世代間の不満はね、バース・コントロールという時代の技術倫理によれば、病的だとはみなされません。しかし、昇華するだとか、より広い範囲に適応するだとか、不満を募らせたエネルギーを一番上手に使うものだとされます。このようにこんにち、以前から申し上げていますように、新しい世代間の倫理には、すべての子どもたちの生活の質を上げていくことに、universal care 「弱い立場の人を、自分が損をしても、大事にする、世界標準の力」がなくてはならなくなりましたよね。このような新しいcaritas 「人の痛みを自分の痛みにできる、大きな優しさ」のおかげで、発達した大人たちは、今まさに発達している子どもたちに対して、コンドームと食糧の詰め合わせの他に、イキイキした陽気で楽しい関わりをプレゼントすることができます。もちろん、生まれくる子どもたちみんなに、衣食住を提供することは当たり前田、ですがね。

 

 

 

 

 

 エリクソンが示してくれるヴィジョンは、実に素晴らしいものですね。それに比べたら、アベシンちゃんの「談話」は、情けないくらいにヴィジョンのかけらもありませんでしたね。エリクソンは、新しい世界標準のカリタス、「人の痛みを自分の痛みとする、大きな優しさ」がありましたけれども、アベシンちゃんは、頭とお腹がやっぱり弱いでしょ、「人の痛み」に全く実感が持てないんですね。自分の悪魔の仲間たちにしか通用しない、タコツボに中でも、一番小さく、それでいて利権にまみれたタコツボにしか通用しない「人類に対する犯罪」をまた、しでかしている訳ですね。

 私どもは、ですから、エリクソンの言う「人の痛みを自分の痛みとすることができる、大きな優しさ」に学ぶべきです。

 

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