ユングも、エリクソンに勝るとも劣らないくらい、人の心を深く知っていることが分かります。日常生活の中で常人が考え付かないことを、この2人が考えるに及んだのは、2人とも、重たい精神障害・ビョーキと同様の心の闇を体験し、そこから回復してきた人たちだからですね。
ユングの著作集から、また折を見て、人間の心の深み、心の不思議を皆さんと一緒に考える機会を設けたいと思います。その時をどうぞ愉しみにしてくださいね。
今晩は、敗戦の記念日に、丸山眞男教授と共に、日本人の政治意識と、民主化のための方法論をご一緒に考えたいと思います。それも、昨晩のユングが、日本人の集団心理が「狂気の無責任」となる点を指摘していたところを、政治学、政治思想史の立場から、考えたいと思います。
1つ手掛かりになるのが、丸山眞男教授が岩波新書の『日本の思想』(学生時代に買ったものが、本棚に見つからないので、Amazonで買い直しました)の第Ⅲ章の「思想のあり方について」に出てきます。そこでは、組織を2つに分けて、「ササラ型」と「タコツボ型」に分類します。「ササラ型」の組織は、ササラが一本の竹先を細かく裂いてはいるけれども、一本の竹であるに違いなのと同様に、いろんな組織が、根っこで1つに繋がっている組織のことです。それに対して「タコツボ型」の組織は、一つ一つが孤立していて、その間に往来がない組織のことです。日本の組織は、「タコツボ型」の組織で、横に繋がっていない、というのが丸山眞男教授の分析です。「タコツボ型」の組織では、そこでしか通用しない言葉が語られ、そこでしか通用しない理屈が、まかり通ってしまいます。「井の中の蛙、大海を知らず」どころか、「隣の蛙は、何するものぞ」となる。お隣にさえ話せないことが、組織の中では堂々と語られ、それがよしとされて、「良いことをしている」ことになっちゃう…。
これは、今も生きている分析です。残念なことですが、今は丸山眞男教授が分析した50年前の日本と比べて、いっそう「タコツボ型」化が進んでいる、と言わざるを得ません。それは、東電や東芝、行政組織などが、自分の組織の組織防衛に終始していることです。しかし、それは、組織を超えた価値を知らないから、だけではありません。日頃から、組織以外の人と、話もしてない訳ですね。話をするのは、自分と同じ組織、同じ立場の人と、だけで、外部の人と話すのも、商売や取引をする時だけ。だから、組織以外のことや、お客の立場や、会社の社会的使命などは一顧だにせずに、「組織のためだから」「会社のためだから」という、拡大版の自己中をやれるわけですね。それは、組織や会社に同調することが自分の利益になるからそうしているのであって、本質は、エゴイズム、利己主義、自己中でしょ。この拡大版の、自己中こそが、無意識の暴力が、個人の運命を弄ぶほどの猛威を振るう温床になる訳ですね。
しかも、やっているご本人は、それが、無意識の暴力が物を言う「人類に対する犯罪」(ハンナ・アーレント)を犯している、なんて自覚は、全くお持ちでないところが特徴なんですね。むしろ、ご本人たちは「良いこと」「社会人として当然のことをしている」とお考えです。内省とは無縁の生活が長いからですね。そんなウソを信じられるのは。自己中と、無意識の暴力にさらされていることには、全くお気づきでない。それに、「会社のためだから」「組織のためにやれ」と言われて、それに「NO」と言うことが、いかに困難なことか、を考えたら、拡大版の自己中が、意識の力ではなかなか止められないことが、分かりますよね。自分では、なかなか意識できない、気付けないことと、たとえ気づいて、意識しても、意識のコントロールが効かないのが、無意識の2大特色なんですからね。ですから、「組織のため」「会社のため」ということが、「狂気の無責任」の始まりです。
ですから、組織内にしか通用しない言葉を使ったり、ましてや、組織内でしか通用しない理屈をこねくり回したりするのは、大変まずい「人類に対する犯罪」(ハンナ・アーレント)です。むしろ、組織を超えて、さまざまな人とお付き合いし、組織を超えて、さまざまな職種・さまざまな年齢の人の話を虚心に伺う。そういう生活をしていることが大事ですね。
その意味でも、いつまでも遅くまで職場にいるように生活をしてたんじゃあ、ダメでしょ。