エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

共同幻想に流されやすい私たち

2015-08-06 08:47:50 | アイデンティティの根源

 

 過去の辛かったことに、きちんと向き合わないと、人生は始まらない。過去の辛い歴史にきちんと向き合わないと、外国との関係が始まらないのと、同じです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p217の 9行目途中から。

 

 

 

 

 

自我は、過去に失ったことやら、罰があたったことやらを諦めることができますし、未来に無理なことを求めなくもなりますよね。すると、自我は、現在の幻想にふけるようになります。また、疑いや心配事に対する、一番不確かなあらゆる憶測を、穢れない、現在にあるような、一番安易なひとつながりの経験を思い出すことで、防ごうってわけですね。健康でまとまりのある自我にとつて、時の流れは、自分を確かにさせる道を後押ししてくれます。それで、まとまりのある自我は、死を恐れなくなります。(これは、フロイトが精力的に指摘してきたことですね)。つまり、まとまりのある自我には、死という考え方がないんですね。まとまりのある自我が怖れるのは、悪い良心、衝動、それに、現実に対するコントロールを失うことです。

 

 

 

 

 現在の幻想とは、ユングが教えてくれているように、集団の幻想、吉本隆明さんの言葉で言えば、「共同幻想」ですね。みんなで何となく、妄想していることがあるんですね。その妄想にみんなで流されている。それはウソとゴマカシにはまって、取り返しのつかないことになる前触れです。

 太平洋戦争に入り、女子供を含めて300万人以上の人が惨めに殺されたこと、原発事故のために、いまも10万人以上が難民にさせられていること、挙げればきりがありません。ですから、そのように幻想に流されないで、自覚的な、意識的な態度が大事になりますよね。

 

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日々の心構え次第で、人生はガラリ

2015-08-06 08:01:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人生千秋楽を迎えた時に、「いろいろとあったけれども、良い人生だった」と振り返りたいものですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p65の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 そこで、私どもがはじめてintegrity 「二律背反があっても、まとまりを付ける力」を定式化したときの、そのやり方をもう一度見たいと思います。しかし、もしも、高齢者がいろんな点で、再び子どものようになるならば、疑問なのは、この「変化」が、wisdom 「闇の中に光を見出す叡智」を伴った子どもらしさへの変化なのか? それとも、限りある子どもらしさへの変化なのか? ということです。(高齢者は、年を早くとりすぎるのか、あるいは、年を早くとりすぎたいのかもしれませんし、それとも、いつまでも若いままでいるのかもしれませんし) ここで、ある種のintegrity 「二律背反があっても、まとめる力」だけが、物事をまとめる力があります。integrity 「二律背反があっても、まとめる力」とは、人の性格だけを言うのではなくて、「いろいろあったけど、良い人生だった」と言って人生をまとめる方法を理解している人の話を理解し、あるいは、「耳を傾ける」、人と分かち合った、心構えなんですね。

 

 

 

 

 

 人生がまとまって見えてくると、「いろいろあったけど、良い人生だった」と言いやすい。人生にまとまりがつかないと、「良いこともあったけど、結局は人生なんて、夢幻に過ぎない」などと言いやすい。その差はどこから来るのかしら? 

 この答えを、ここでエリクソンが教えてくれてますね。人生を上手にまとめている人の話を善く聴くこと、そこにある心の構え、生きる姿勢を学ぶこと。その点、西村秀夫先生や、野村實先生、宮嶋眞一郎先生、高橋三郎先生に出会えたことは、またとない幸せだったと、確信しています。

 

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恵みであると同時に、呪いである道

2015-08-06 05:20:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
危険分子、イエスとその弟子
  ≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫、ソリチュードは、私どもが、ウソとゴマカシのない、人間らしい暮らしをするうえで、欠くことのできない、究極にし...
 

 

 

 今晩は、ユング(Jung, C.G.)の第3夜。

 昨日は、「本当の自分」を育てることは、内なる声≪天の声≫に耳を澄ませて、それに忠実に従うことだ言いますね。でも、「本当の自分」を育てる人はまれらしい。なぜなら、シキタリに従っていたのでは、「本当の自分」を育てることにならないから。≪天の声≫は、シキタリとは異なる、「新しい、素晴らしい道をおいきなさい」と薦めるから。同調主義が猛烈な日本の組織では、組織のシキタリが、猛烈でしょ。それとは別のことをしようとすれば、「出る杭は打たれる」、「村八分」、イジメられますね。多くの人は、同調することによって、自分の利益を貰いながら生きるパターンになりやすい。イジメられながら、「本当の自分」を育てるのは、損を覚悟で、しかし、その≪天の声≫の良さを信頼すればこそですね。ですから、「本当の自分」を育てるのは、意識的で、倫理的な態度だと言えますね。

 でも、これは日本人のような同調主義が猛烈な組織がある社会ばかりのことじゃないらしい。なんせ、ユングは次のように言うくらいですからね。

「本当の自分を、かすかに気付いているところから、ハッキリ意識するところまで、育てることは、恵みであると同時に、呪いです」((The collected Works of C.G.Jung, Vol.17, p173)と。

 何故なんでしょうか?

 ユング自身がいいます。

「なぜならば、本当の自分になる、ということの最初の果実は、同調的で無意識的な人の群れから、一人の人が、意識的に離れる他ない、ということになることですから。つまり、単独になることです…本当の自分を育てることはね、大きな犠牲を払わくちゃならない賜物なんです」(同上、p.173)とね。

 続けてユングは言います。

 「でもね、本当の自分を育てることは、恐る恐るマムシの卵を孵したり、怖々と単独になることだけじゃぁないんですよね。それは、自分が≪いまここ≫で生きる法則に忠実に従うことなんですね。」(同上、p.173)と。

 しかも、ユングは、この「忠実に従う」と今しがた訳したfidelityは、ギリシア語のピスティス πιστις 「信頼」だと言うんですね。しかも、「この言葉は、faith『信仰』と誤訳されますが、実際はtrust『信頼』、『忠実に従う』という意味なんです」(同上、p.173)と言います。ですから、ユングは続けます。

「一人の人が自分自身の道を歩もうという倫理的な決心が出来るのは、その道が一番いい道だと思う場合です。もしも、他の道の方がもっといいと思えば、その人は、自分自身になる代わりに、別の人を生き、育てることになります」。

 あなたは、自分自身になる道を歩みたいですか?

 それとも、自分じゃない誰かになりたいですか?

 

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