エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

新鮮な時代精神の誕生

2015-08-25 08:01:46 | アイデンティティの根源

 

 「正しいこと好き」の悪い良心の、困った大人がいても、自我の時空に従って生きられればいいんですけれどもね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の3行目途中から。

 

 

 

 

 

 どの時代にも、自分を確かにする道もない、人品もない、ということに、その時代特有のものがあります。あらゆる世界の中で、最高の世界でも、緊張や熱狂があるもんです。緊張や熱狂があるのは、衝動や締め付けが過剰だからでしょう。人は時代を完全に生き切ることなどできませんが、その時代の外に生きることもできません。時には、自分を確かにする道が、その時代の価値に沿っている場合もあります。でもね。マルティンのように、圧倒的に悪い良心が、ルターにあるような、敏感さや原動力と結びついている時ばかりは、新しい良い良心が、新しい価値の種を、歴史的変化という溝に蒔く時なんですね。それに、おそらく、このように価値の新鮮な始まりには、私がこの議論の中で描こうとしている自我の性質が、共通してあるもんですね。

 

 

 

 

 悪い良心でも、時代の価値に違和感があって、しかも、その当人にヴァイタリティがある時には、新しい時代精神を呼び覚ます場合があるみたいですね。ルターがそうしたように、それは新しい時代の登場です。しかし、それは、いったん悪い良心が、良い良心への変わることが前提条件らしいですけれどもね。

 良い良心、それは許し合い、認め合い、しかも、1つの人類に忠実な在り方でしょう。そのような良い良心が、今まで気付かなかった価値に目覚める時、新しい時代精神が生まれるのでしょう。

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「エバッタ態度」は子どもにとって、大迷惑!

2015-08-25 04:37:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンが言う「大人の役割」とは、子どもに生きる悦びを感化することです。これは、フロムの言う「大人の役割」と完全に一致しています(今の教育は、「全うで、健全で、人間らしい生き方に対するイメージ」をナイガシロにしてます)。ついでに、私が「大人の役割」と考えるものとも完全に一致しているのが、「生きる悦びの感化」です。「正しいこと」を教えているあなた、それをやるたびに、子どもは「生きる悦び」から離れていくことに早く気づいてくださいね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p70の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ritualizm リチュアリズム、「形ばかりの礼拝」が、大人の時期に蔓延る場合、それは、authoritism オーソリティズム、「エバッタ態度」だと私は考えます。つまりそれはね、お金を使うにも、家族の生活にも、regimentation レジメンテーション 「正しいことを押し付ける」ために、力そのものを、心の狭い態度で、人を育てることにもならないやり方で、使っちゃうことなんですね。もちろん、純粋なgenerativity 「自分が損をしても、次世代の人や物事を育むこと」には、本物の≪超越≫が必ずあるものですけどね。

 

 

 

 

 

 形ばっかりの礼拝、礼拝とは無関係な生活をしている多くの日本人は、「何のことかしら?」と思うかもしれませんね。これは、形ばかりの言葉であったり(つまり、ウソとゴマカシです)、形ばかりの態度(やる気はないけど、やったフリをする、アリバイ作りの行為のこと、結局、「やった」ことにはなんない)のことですよね。

 「形ばかりの礼拝」には、“嘲り“と“不機嫌な表情“がつきものだということですね。それか特色です。「本物の礼拝」は、溢れるほどの悦びに満ち満ちていますから、自ずから微笑みが溢れますでしょ。嬉し泣きの場合も結構ありますよね。でも、「形ばかりの礼拝」では、そんな悦びは基本的にございませんし、不満と不安がつきものですから、自分が「上に立つ」ことをしたがります。それが「エバッタ態度」になるんですね。その人たちは、気の毒なことですが、「エバッタ態度」をして「上に立つ」時だけ、一瞬しか、生きている実感が持てないからなんですね。

 こういう人は、「弱い立場」の人がすぐ近くにいる仕事を無意識に選びたがります。なぜなら、「弱い立場」の人でしたら、自分が「上に立つ」のも簡単ですからね。ですから、こういう中身のない「エバッタ態度」の人は、教員、保育士、医者、大学教授、看護師など、教育、福祉、医療など、弱い立場の人を相手にする仕事を、無意識に選びたがります。

 もちろん、この「エバッタ態度」は子ども(その他の「弱い立場」の人、患者、学生など)にとって、大迷惑なんですけどね‼

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アーイニョ

2015-08-25 02:33:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
矛盾律、難しすぎ!
 矛盾律は、臨床では当たり前。さてさて。 p68の下から3行目から。    ...
 

 先日のブログ「待つ」で、京都大学総長で、国立のご出身の山際壽一さんのことを取り上げました。これは、NHKの「switch interview 達人達」での話にヒントを得て、記したものでした。その際には触れませんでしたが、山際壽一さんのお相手は、関野吉晴さんでした。私はお二人とも知りませんでしたが、関野吉晴さんは、外科医で冒険家、もともとは一橋大学法学部のご出身ですから、関野吉晴さんも、国立との関わりのある方ですね。山際壽一さんと関野吉晴さんは、国立繋がりでもあったわけですね。

 その関野吉晴さんは、世界の辺境の「グレートジャーニー」が有名なそうですね。これも私知りませんでしたね。その関野吉晴さんも、大事なことを教えてくれますので、それを皆さんとシェアしたいんですね。それが今日のタイトルです。これは、アマゾンの少数民族、マチゲンガ族の挨拶だとか(http://www.chiheisen.net/_hokokukai/_hk2003/hkrp0304.html)。それが実にいい挨拶なんですね。「アイニョ(居る)・ビ(おまえ)?」「アーイ・ニョ(お~るよ)」という感じだそうですね。

 このことをお話する関野吉晴さんの話ぶりから、私の受けた印象では、この「居るか、お前」「お〜るよ」の挨拶は、「お前、自分を生きてるかい?」「自分を生きてるよ」という感じ。自分を生きる。しかも、それが社会の要請に叶う。伝統的な生活様式のマチゲンガ族の生き方。関野吉晴さんは、「今を生きる」=「自分を生きる」マチゲンガ族だからこそ、そのマチゲンガ族にも魅了されているはずですからね(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/144339.html)。

 私どもも、「お前、自分を生きてるかい?」「おう、自分をバッチリ生きてるゼィ」と挨拶して生きたいものですね。

 あなたはご自分を生きてます?

 

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