「正しいこと好き」の悪い良心の、困った大人がいても、自我の時空に従って生きられればいいんですけれどもね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.221の3行目途中から。
どの時代にも、自分を確かにする道もない、人品もない、ということに、その時代特有のものがあります。あらゆる世界の中で、最高の世界でも、緊張や熱狂があるもんです。緊張や熱狂があるのは、衝動や締め付けが過剰だからでしょう。人は時代を完全に生き切ることなどできませんが、その時代の外に生きることもできません。時には、自分を確かにする道が、その時代の価値に沿っている場合もあります。でもね。マルティンのように、圧倒的に悪い良心が、ルターにあるような、敏感さや原動力と結びついている時ばかりは、新しい良い良心が、新しい価値の種を、歴史的変化という溝に蒔く時なんですね。それに、おそらく、このように価値の新鮮な始まりには、私がこの議論の中で描こうとしている自我の性質が、共通してあるもんですね。
悪い良心でも、時代の価値に違和感があって、しかも、その当人にヴァイタリティがある時には、新しい時代精神を呼び覚ます場合があるみたいですね。ルターがそうしたように、それは新しい時代の登場です。しかし、それは、いったん悪い良心が、良い良心への変わることが前提条件らしいですけれどもね。
良い良心、それは許し合い、認め合い、しかも、1つの人類に忠実な在り方でしょう。そのような良い良心が、今まで気付かなかった価値に目覚める時、新しい時代精神が生まれるのでしょう。