エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

淡々と生きるために

2015-08-08 11:40:16 | アイデンティティの根源

 

 自分の≪感じ≫を大事にすることです。その≪感じ≫は微妙なものですから、静かにしていないと、気が付きません。気が付いても、どういう意味があるのかが分かりません。その≪感じ≫に気付く時間は、瞑想、メディテーションそのものですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.217の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

  全くの的外れとそこから完全に解放されることについて、いつの時代でもある、とルターが言い直していることは、筋の通らない話だと容易に分かります。このいい直しは、意地悪に、マルティンが傷つきたくなかったからだと解釈できるかもしれません。つまり、マルティンは霊的に高揚し、呪いのような憂鬱も高まると、権力と復讐心、女性と食糧とビールに対する欲望も高まるという欠点です。しかし、こういった二律背反が一緒に存在することは、心の理屈がある訳ですね。こういった二律背反が、実際には両立などできないことに対する激しい怒りにも、同様に心の理屈があります。マルティンの神学上の改革が意味するものは、心の事実です。つまり、自我が「実際に」力を得て、しかも、「気持ちの中でも」ある程度力を得れば、いろんな衝動のあらゆる力と良心のあらゆる力を同時に受け入れることができた、ということです。

 

 

 

 

 

 あらゆる衝動と、あらゆる「悪い良心」の力を受け止めるだけの力を、実際自我が手にいることができたら、こんな素晴らしいことはありませんね。名声や地位や財産を手に入れることも良いことでしょう。権力や異性や食糧やビールを手にするのも、それは素敵なことでしよう。しかし、そんなものに比べたら、衝動と悪い良心をコントロールする自我の力を手の入れた方が、遥かに人を幸せにすることを、エリクソンはよくよく知っていたはずですね。私も心理臨床家の端くれとして、100パーセント支持したいと思います。

 この自我の力を得たものは、ジタバタすることなく、静かな目的のために日々を、淡々と生きることができるでしょうね。

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大人の、世の中を守る役割って?

2015-08-08 09:10:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私どもは静かな目的を持って、日々を生きたいものですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p66の ブランクの後から。

 

 

 

 

 

     世代間の繋がり:成人期

 

 文脈が許す限り、人生の巡り合わせの最後を振り返ってきたところですが、私は「現実の」舞台について、詳しく申し上げる必要性を強く感じてんですね。つまり、人生の「2つ」の舞台の間にある舞台と、世代の巡り合わせそのものの舞台です。差し迫った感じは、死が間近な高齢の人の物語に、一番よく表れています。その人が、眼を閉じて横になっている時に、奥さんがその人に囁いて言います。そこに集まった家族の名前を一人一人挙げます。その家族は、その人に、shalom シャローム「文句のつけようにない平安」があることを望んで、ここに来たわけですね。「それで、誰だっけ?」とその高齢の人は不意に尋ねました。突然起き上がって、「誰が店を見てるんだい?」と訊きました。これは、大人のスピリットを言い表したものでして、ヒンドゥー教が「この世の中を守ること」と呼んだものです(訳注:ヴィシュヌ神の役割)。

 

 

 

 

 

 高齢の人の役割について、エリクソンが導入に用いた、事例です。雑貨屋さんか食べ物屋さんをしてたんでしょうか。このお爺さんは、死が近いのに、まだ、その店の心配をしています。世の中を守ることが役目だからです。自分の家族だけを守っている訳じゃぁない点に注意が必要です。

 世の中を守ることって、どういうことでしょうか?

 

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ユングが教えてくれる「心理学の法則」

2015-08-08 04:41:41 | エリクソンの発達臨床心理

 

 システム、組織が巨大化し、組織化された現代において、自分の全体性を快復し、私ならではの持ち味をまとめておくことが何よりも大事だと分かりますよね。

 じゃぁ、内観し、内省して、内なる≪天の声≫に忠実に従う中で、≪私≫がまとまっていくことはどういうことなのか? それが叶わないとどうなるのかを皆さんと一緒に考えたいと思います。今日は、ユングの著作集の第九巻の二部(Aion : The collected Works of C.G.Jung, Vol.9-2, pp.36-71)にあるChrist, a symbol of the Self「キリスト、本当の自分の表象として」を主なる素材とします。

 私が≪私≫をまとめる時に、晴れがましい自分、カッコいい自分、立派な自分は、まとめやすいし、是非とも、まとめておきたいと感じますね。いわば「光の自分」です。厄介なのは、みじめな自分、カッコ悪い自分、渡辺和子さんの言葉で言えば「ふがいない自分」です。これは「影の自分」と呼んでもいいと思います。「影の自分」は物語に入れにくいし、あまり入れておきたいとは思わない。いつまでも「影」のままにしておきたくなるのも、人情かもしれませんよね。でも、≪私≫は光も影も含んだ〈全体性〉wholeですから、「影」をそのままにしておくと、全体性である≪私≫の物語を創り出すことにならないらしい。

 ユングはその≪私≫=「本当の自分」を象徴するものがあると言うんですね。イタリックで強調していますから、ここではボールドで強調しますね。

キリストは、『本当の自分』の元型を具体的に見せてくれています」(前掲書,p.37)とね。

 キリストそのものには影はないのかもしれませんが、その影として、キリストは「悪魔」と対決しなくてはなりませんでした。聖書にそのくだりが出てきますもんね。「荒野の試み」と言われる部分で、有名です。悪魔から「石をパンにしてみろ」、「全世界をやるから、俺に従え」、「お前が本当に神の子なら、高いところから飛び降りてみろ」。これに対して、イエスは、適切な聖書の言葉で、やり返します。最初の問いに対するイエスの応えも有名ですね。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書「マタイによる福音書」第4章4節)と答えていますね。

 昨晩も申し上げましたように、≪私≫=「本当の自分」をハッキリ意識すればするほど、無意識的な集団から離れていかざるを得ませんよね。そうすると、さまざまな軋轢が生じますでしょ。特に日本では付和雷同、同調主義が猛烈でしょ、いっそう困難な軋轢が生じやすい。

 でも、同調し、付和雷同していたら、そこに本当は軋轢があることも、「本当の自分」も分からないまま、気付かぬまま、になります。そういう人に限って、忙しく振る舞ったり、いつまでも、集団の中でベタベタしたりで、自分の心を見ないんですね、1人の時間を持とうとしないんですね。ですから、ユングは言います。

「イエスは、…『気付いた人』の元型になります。なぜなら、矛盾は、イエスの中では、十字架の苦しみによって、区別できますし、ハッキリと意識できるものになりますから」と。

 対立していること、影と光を両方ともに意識することが、どれだけ大事か分かります。そして、ユングは心理学の法則を教えてくれます。

心の内側を意識しないとね、心の内側のことが、外側で起きちゃうのが運命ですよ。人は、脇目も振らずに、心にある矛盾に気付かぬままでいますとね、否応なく、葛藤が身に降りかかり、身が引き裂かれる思いをすることになりますよ」(前掲書,p.71)とね。

 

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