エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

あしあと・・・

2015-08-27 07:50:39 | アイデンティティの根源

 

 自分の「未解決の個人的課題」は平凡な日常生活を送っていても、なかなか気づけるものではありません。「困ったなぁ」、「あいつはとにかく許せない」などと感じるような場面に出くわす危機場面になって、初めて気づきのチャンスは与えられるんですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 神ご自身が、気前のいい父なるイメージに、このように加わります。ルターは旧約聖書の『詩篇』第102篇13節(現在の聖書では、14節)を解釈して言います。「あなたは、どうか立ち上がって、シオンを憐れんでください」とこの聖句にあります。「この『立ち上がる』とは、神ご自身が、一番優しくて、一番恵み深い人になりつつある、ということです。というのも、ここでは、神が私どものところのくるのは、神が私どもを神まで掬い上げるためだからです」と。

 

 

 

 

 神様が私どもに来るときには、最初は、なんか自分にとっては、不都合だ、嫌だ、と感じる場合が、ラッキーだと感じる場合よりも、はるかに多いと思います。これは私の経験則ですから、どなたの場合もそうだとは言えないかもしれませんね。でもね、「footprints あしあと」という詩を書いた詩人も、私と似ていますから、私のように感じる人はかなりいるのかもしれません(http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm)。

 不都合だ、嫌だ、と感じるところをよくよく見ていると、そこには、私どもを神の御許に、現世の中で掬い上げて下さっていることが、ハッキリ見えてくる場合が、少なくありません。 

 

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女子高生の売春には、大きな磁場が働いている!

2015-08-27 06:50:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 心大らかに、朗らかに、ユーモアセンスのある大人になりたいものですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p70の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 人間関係の心理学に関して言えば、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」の反対は、isolation アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」です。isolationとは、異性や異世代や異なる立場の人とやり取りができないことや、異性や異世代や異なる立場の人と認め合うことができないことを恐れてんですね。異性や異世代や異なる立場の人たちとやり取りできなかったり、認め合うことができないことが怖いから、今どきの性的な成熟、「我と汝」の経験をするという恍惚的な礼拝を、無意識の深みから、やりたがるんですね。その恍惚的な出会いを、自分が生きていると感じる初めになる、と思ってる訳ですね。

 

 

 

 

 

 女子高生の売春だけではなくて、早い結婚は、エリクソンが言う、アイソレーション、「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」が背景をなしている場合が、あまりにも多い。セックスでそのアイソレーションを解消したいと、無意識裡に思っている。それはあまりにも危険なことは、自明です。しかし、ご本人にとっては、それは、分からない。なぜなら、それは、無意識のことであるからですし、S極がN極に自ずから引かれる如く、猛烈な磁場の中で、自己コントロールできない形で、その恍惚に落ち込むものだから。

 ですから、本物のやり取り、温もりを感じる陽気で楽しい関わりが、いかに大事かが、改めて分かりますね。

 

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禅とエリクソン

2015-08-27 06:16:26 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
道 アイデンティティ
  無知の知こそ、あらゆる賢さの基です。 p69下から2行目途中から。   &a...
 

 今晩は、禅を考えます。

 今年度上半期、「心の時代」で、東洋大学学長の武村牧夫先生が、「日本仏教の歩み ~信と行〜」と題して、日本の仏教史を教えてくれています。先日は、「禅 ― 自己を求めて」と題して、お話しくださり、とてもいい学びが出来ました。来月9月20日(日)5時~の「慕われる僧たち」が最終回になるそうです(9月26日(土)13時~ 再放送)。禅はほとんど、タイトルからもお分かりのように、仏教的な心理学みたいですね。

 禅とは、もともと、サンスクリット語のディアーナ、中国語の音写ですと、禅那(ぜんな)のことらしい。その意味は、「心を統一する」「心を確かにして動揺しないようにする」ということのようです。これって、まさに、エリクソンの言うa sense of identity アイデンティティ、「自分を確かにさせる感じ」と同じです。

 武村牧夫先生によれば、もともと、 戒(かい)(戒律を守ること)・定(じょう)(心を統一すること)・慧(え)(悟りを開くこと)の三学こそが仏教の根本と言われるそうですね。禅は、その中で定(じょう)、すなわち、心を統一することを重んじる立場だと言います。
 伝説によると、中国に禅を伝えたのが、「だるまさん」の名で知られている、達磨大師だとか。禅は、中国風の仏教ともいえるらしい。その禅で有名だと武村牧夫先生がおっしゃるのが、「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」です。難しそうですね。私も「不立文字(ふりゅうもんじ)」と「見性(けんしょう)」以外は、残念ながら初耳でした。でもこの中身が分かると、無意識を「発見」したのは、フロイトじゃないなぁ、って感じになりますよ。

 まずは「不立文字(ふりゅうもんじ)」とは、禅の教えは、文字や言葉では言い尽くすことができない、ということだそうです。言葉にならない点で、無意識が関係するものと考えられます。

 2番目の「教外別伝(きょうがいべつでん)」とは、禅の教えは、言葉や文字で教えられるようなものではなく、師の日頃の立ち居振る舞いから感化されて、伝えられるものだということらしい。

 3番目の「直視人身(じきしにんしん)」とは、師が、心の真実そのもの、心の中にある「本当の自分」を指示して、弟子に了解してもらうことを意味すると言います。

 最後の「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」とは、「本当の自分」を対照的・客観的に眺めるのではなしに、「本当の自分」に成りきること、「本当の自分」になることが、仏になることだ、を意味すると言います。これなど、カウンセリングやら、セラピーやらと同じでしょ。

 もう1つ、禅でよく言われるのは、公案(こうあん)です。特に白隠禅師(はくいんぜんじ)の公案が有名だそうです。禅問答などと言われる場合もありますね。たとえば「隻手音声(せきしゅおんじょう)」があります。「片手の声を聴きなさい」という訳ですね。両手でしたら、手を打てば「バチッ」と音がしますよね。でも、片手で拍手が出来るのかなぁ?、拍手もせずに音がなるのかなぁ? これは、理性や悟性ではつかみきれませんでしょ。理屈だけで考えても、「?」しか出てこない。その答えを見つけるためには、意識レベルでの思い、を超えた無意識まで考え併せなくちゃならないでしょうね。河合隼雄先生も、エッセイに「公案としての子ども」があり、仏教的な知恵で、カウンセリングや子どもとの関わりを教えたくれる文書があるくらいですよね。

 武村牧夫先生の話で、最も感じ入ったのが、悟りを得た者は、「我こそは悟りを得た者なり」という顔をしてたんじゃぁダメだということ、そして、「悟りを得た者」はその悟りをむしろ消して、悟りをごく普通の生活をする中で、生かすことが大事であると言う点です。「味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず」。「悟り臭いのは、本物ではない」ってな訳ですね。これは仏教や禅宗にだけ言えるものではないなぁ、と感じましたね。

 私どもも、臨床心理学や、子どもとのセラピーで学んだこと、あるいは、バイブルが言わんとすることを、日常生活の何気ない関わり、言葉かけ、素振りの中に、生かしてまいりたいものですね。

 

 

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