道 アイデンティティ
無知の知こそ、あらゆる賢さの基です。 p69下から2行目途中から。 &a...
今晩は、禅を考えます。
今年度上半期、「心の時代」で、東洋大学学長の武村牧夫先生が、「日本仏教の歩み ~信と行〜」と題して、日本の仏教史を教えてくれています。先日は、「禅 ― 自己を求めて」と題して、お話しくださり、とてもいい学びが出来ました。来月9月20日(日)5時~の「慕われる僧たち」が最終回になるそうです(9月26日(土)13時~ 再放送)。禅はほとんど、タイトルからもお分かりのように、仏教的な心理学みたいですね。
禅とは、もともと、サンスクリット語のディアーナ、中国語の音写ですと、禅那(ぜんな)のことらしい。その意味は、「心を統一する」「心を確かにして動揺しないようにする」ということのようです。これって、まさに、エリクソンの言うa sense of identity アイデンティティ、「自分を確かにさせる感じ」と同じです。
武村牧夫先生によれば、もともと、 戒(かい)(戒律を守ること)・定(じょう)(心を統一すること)・慧(え)(悟りを開くこと)の三学こそが仏教の根本と言われるそうですね。禅は、その中で定(じょう)、すなわち、心を統一することを重んじる立場だと言います。
伝説によると、中国に禅を伝えたのが、「だるまさん」の名で知られている、達磨大師だとか。禅は、中国風の仏教ともいえるらしい。その禅で有名だと武村牧夫先生がおっしゃるのが、「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」です。難しそうですね。私も「不立文字(ふりゅうもんじ)」と「見性(けんしょう)」以外は、残念ながら初耳でした。でもこの中身が分かると、無意識を「発見」したのは、フロイトじゃないなぁ、って感じになりますよ。
まずは「不立文字(ふりゅうもんじ)」とは、禅の教えは、文字や言葉では言い尽くすことができない、ということだそうです。言葉にならない点で、無意識が関係するものと考えられます。
2番目の「教外別伝(きょうがいべつでん)」とは、禅の教えは、言葉や文字で教えられるようなものではなく、師の日頃の立ち居振る舞いから感化されて、伝えられるものだということらしい。
3番目の「直視人身(じきしにんしん)」とは、師が、心の真実そのもの、心の中にある「本当の自分」を指示して、弟子に了解してもらうことを意味すると言います。
最後の「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」とは、「本当の自分」を対照的・客観的に眺めるのではなしに、「本当の自分」に成りきること、「本当の自分」になることが、仏になることだ、を意味すると言います。これなど、カウンセリングやら、セラピーやらと同じでしょ。
もう1つ、禅でよく言われるのは、公案(こうあん)です。特に白隠禅師(はくいんぜんじ)の公案が有名だそうです。禅問答などと言われる場合もありますね。たとえば「隻手音声(せきしゅおんじょう)」があります。「片手の声を聴きなさい」という訳ですね。両手でしたら、手を打てば「バチッ」と音がしますよね。でも、片手で拍手が出来るのかなぁ?、拍手もせずに音がなるのかなぁ? これは、理性や悟性ではつかみきれませんでしょ。理屈だけで考えても、「?」しか出てこない。その答えを見つけるためには、意識レベルでの思い、を超えた無意識まで考え併せなくちゃならないでしょうね。河合隼雄先生も、エッセイに「公案としての子ども」があり、仏教的な知恵で、カウンセリングや子どもとの関わりを教えたくれる文書があるくらいですよね。
武村牧夫先生の話で、最も感じ入ったのが、悟りを得た者は、「我こそは悟りを得た者なり」という顔をしてたんじゃぁダメだということ、そして、「悟りを得た者」はその悟りをむしろ消して、悟りをごく普通の生活をする中で、生かすことが大事であると言う点です。「味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず」。「悟り臭いのは、本物ではない」ってな訳ですね。これは仏教や禅宗にだけ言えるものではないなぁ、と感じましたね。
私どもも、臨床心理学や、子どもとのセラピーで学んだこと、あるいは、バイブルが言わんとすることを、日常生活の何気ない関わり、言葉かけ、素振りの中に、生かしてまいりたいものですね。