二律背反をまとめることは簡単なことじゃぁない。しかし、それをまとめることは、健全で、尊く、人を癒す力があるようですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p216の第2パラグラフの11行目途中から。
私どもは1つの絶対的な舞台から、もう1つの絶対的な舞台へと、どうやったって、行くことなどできません。私どもが天与の気付きの器官を用いることができるのは、≪いまここ≫なんですね。それは人間の条件に内在する二律背反をまとめるためなんですね。心理学的に申し上げれば、つまりそれは、どんな時でも、どんな行動、どんな考えでも、私どもの衝動や良心では気付くことができないレベルまで、協力して物事を決めることですね。私どもの自我が一番強力なのは、私どもの衝動を否定しすぎた場合じゃぁなくて、愉しめることを一緒に愉しみ、「ねばならないこと」は止めにして、創造性に従って、愉しめることを純なものに、一緒にしていくことですよね。それは、私どもの良心がいう「ねばならないこと」に対して、いつでも、良い遊び、ゆとりを作り出すことです。
遊びとゆとりがどれだけ大事か分かります。ゆとりと遊びがあって初めて、人は自由になれるからです。良いものはね、必ず、自由から生まれるんですね。しかし、無制限の自由ではなくて、制限のある自由、「自由にして守られた空間」から、創造性=≪私≫は生まれます。