エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自由自在に、いまを生きる

2015-08-28 07:51:20 | アイデンティティの根源

 

 「あしあと」の詩はいかがでしたか? ビーチのお土産にどうぞ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターの最初の説教を研究すると、ルターが深~い強迫的な葛藤から自らを癒したとき、いまを生きることの根っこを、宗教的、内省的な方法で、自由自在に、ほとんど無垢な形で、生きることが出来るようになった、と分かりますね。

 

 

 

 

 

 自由自在に、いまを生きる。素晴らしいですね。それは昨日の武村牧夫先生のお話のように(禅とエリクソン)、「悟りをごく普通の生活をする中で、生かすこと」ですね。極々日常生活を生きていながら、そこに根源的信頼が豊かにあり、自由自在さがあり、大らかさと、ユーモアセンスがあります。それは必ず、陽気で楽しい雰囲気の生き方になりますもんね。

 

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敵意という壁の乗り越え方

2015-08-28 07:06:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 無謀なセックス、早すぎるセックスは、その子の家族の中に、、isolation アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」に傾く傾向が強くがあるからです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p71の2行目途中から。

 

 

 

 

 

それで、アイソレーションの感じ、「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とする感じ」は、若者世代の心の病の中核になるかもしれませんね。実際は、「2人のアイソレーション」の結びつきになることがあります。この「2人のアイソレーション」があると、パートナーが次の大事な発達、はなわち、generativity 「次世代の人や物事を、自分が損しても、育む」という発達に直面しなくてすませることになります。でもね、アイソレーション、「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、ということ」の一番大きな危険は、自分を確かにする葛藤が、退行した形で、また、敵意むき出しの形で、再現することですし、退行の場合は、母親との最初の葛藤に何度も戻ってしまうことにあります。これは、「境界性人格障害」として現れる場合があります。しかしながら、、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」と、isolation アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」の対立を解決しておくことから、自分と人を大事にする気持ちが生まれます。この、自分と人を大事にする気持ちは、お互いに相手を大事にすることなんですが、お互いに相手を大事にできれば、男女に分かれた働きに受け継がれている敵意を解決するようになるものなんですね。

 

 

 

 

 intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」と、isolation アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」の対立を解決しておくことって、どういうこと? と思いませんか? それは、isolation アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるべく関わらずにおこう、とすること」よりも、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」を選択できるようにしておく、ということです。それができれば、それは、自分も人も大事にすることに繋がります。すると、敵意という意地悪な気持ちが起きにくくなり、多くの人と仲良く、朗らかに関わることか出来ますよ。

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「第三の道」の不思議

2015-08-28 02:26:32 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
少数意見がなぜ大事なのか?
 世界にいっそうの自由をもたらす<新しいヴィジョン> 身代わりとしての患者2013-08-28 02:00:39 |&n...
 

 意識と無意識を今晩は考えます。

 と言っても、私は個人を相手にする心理療法が生業ですから、大局観に立ってお話するというより、個人に寄り添う形で、ご一緒に考えることができればと思います。

 ある小学生と投影法を用いたセラピーをしています。何回か前から、あまり気乗りのない感じを強く感じていましたが、表立った症状が治まっているので、もうセラピーをしなくてもいい、と思っているようなんですね。さらにそれにもまして、セラピーのような特別なことをすることは、「恥」と感じているので、症状が治まった以上、「もうやりたくない」と意識の上では、考えているらしいのです。

 しかし、先ほど投影法のセラピーをしている、と申し上げましたよね。その投影法を通して、小学生が語ることは、無意識においては、「自分のありがたくない症状の中に、「光」を見つけたいし、実際見つけることになります」と言うんですね。その種の「光」は、日常生活を送っていく中では、なかなか見つかるもんじゃぁありませんから、無意識では「セラピーを続けたい」と言っている感じになります。

 このように考えると、意識で考えていることと、無意識が考えていることは、正反対だ、ということになりますね。河合隼雄先生は、「意識と無意識は補い合うものだ」、「相補的だ」と、常々おっしゃいます。ですから、この小学生の場合も、意識と無意識が補い合うものとなるのかもしれません。まさに真逆を言っていますから、単純にセラピーの中断と継続の二者択一ではない感じがしますよね。

 理屈で言ったら、二者択一ということかもしれません。でも、私の感じでは、まだその感じが十分に言葉にはならないのですが、単純にセラピーの中断にはならない、と感じますね。「第三の道」が用意されていることを強く感じますね。

 私の予感が現実になるのかどうかは、今は「分かりません」と言うしかないんですけどね。でも、私の予感が現実になるのじゃないのかなぁ、という感じが強くあるのも事実ですね。

 不思議でしょ、面白いでしょ。

 

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