エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

無意識の餌食になっちゃう

2015-08-10 08:13:49 | アイデンティティの根源

 

 人は衝動も悪い良心も、逃げずに立ち向かえば、恐れるに足りないものだとか分かりります。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.218の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 もしも、自我が、衝動や悪い良心と和解することができなければ、フロイトが「それ」と呼んだものの操り人形になることが特色の、第3の時空の餌食になります。この状態の危険性は、フロイトが生物的本能と考えた物から来ます。すなわち、自我が経験することが、自我の下、自我の外で、しかも、その本能の虜になります。「それ」にやられると、時空は一方向に、願いを満たしたい方向に配されるようになります。私どもが分かっていることですが、私どもの緊張が高まるのは、時と状況の解決が遅れたり、満たされるのが遅れる場合ですし、また衝動が加速するのは、衝動を満たす機会が訪れる場合です。

 

 

 

 

 

 昨夜ユングの著作から、無意識のことを考えましたね。今回のエリクソンは、同じテーマですね。衝動とも悪い良心とも、向かい合わず、忙しそうに逃げ回っていますとね、無意識の餌食になって、日常生活が息苦しいものとなります。

  このあたりからも、ユングとエリクソンの共通性が見えてきますね。

 

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人それぞれの「運命の分かれ道」

2015-08-10 07:30:52 | エリクソンの発達臨床心理

 

 発達は一歩ずつ。一歩ずつが大事でしたね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p66の 下から6行目途中から。

 

 

 

 

 

 それぞれの舞台にふさわしい年齢の幅については、あらゆる必要条件を考慮して、1つの発達の特質がかなり支配的となりうるし、意義あるcrisis、すなわち、意義深い「運命の分かれ道」ともなるうる、一番早い時期を含み、あらゆる発達のために、この危機を支配することを、次の発達の特質に譲り渡さ「なくてはならない」最後の時期を含むように論理を展開するようにしなくてはなりません。この繋がりにおいては、発達の舞台は、かなりの幅があり得るけれども、舞台の順番は、あらかじめ決まった通りなんですね。

 

 

 

 

 こういうことを考えると、人は繰り返し「運命の分かれ道」を通ってきていることが分かります。その「運命の分かれ道」が、繰り返し、最初の根源的信頼感をいっそう豊かにするものならば、それは幸いそのものでしょう。しかし、その度に、根源的不信感を深めるものになったならば…。ですから、「運命の分かれ道」なのですね。

 「運命の分かれ道」で、根源的信頼感を、いっそう豊かにするものにしていくために、子どもの近くにいる大人は、働き掛けたいものですね。

 

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ユングが語る「感情色のコンプレックス」

2015-08-10 04:57:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪時空の境界線≫が心の中で果たす、驚くほどの役割。イスラエルの隔離壁を見よ!
  私どもは、どのようにヴィジョンを再生すればいいのでしょうか? p333の第2パラグラフ。  &am...
 

 今晩は、ユングの第6夜。昨日はショートカット版で失礼しました。

 今晩は、ユング著作第8巻(The structure and dynamic of the psyche 『魂の構造と魂の爆発的な力』:The collected Works of C.G.Jung, Vol.8, pp.159-234)On the nature of the psyche 「魂の本質について」から。無意識の働きについて皆さんと考えたいと思います。

 無意識と言ったら、意識できないこと、くらいに理解している場合が多いのじゃないかしらね。教科書的には、「フロイトは無意識の否定的側面を強調し、ユングは無意識の肯定的側面を強調する」と対比的に言われます。そう言う傾向は確かにあるのでしょうけれども、それは非常に大雑把な理解でしかありません。ユングはよくよく無意識の否定的側面も知っています。

 その一つが無意識の強迫的性格です。難しいですね。簡単に申しましょう。意識的に止めようと思うことすらないのに、意識的に止めようと思っても、ふつうは止められない、心の働きです。恐ろしいですね。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」=「意識するからこそ、私は存在する」が根本から否定されてしまいます。

 どういうことでしょうか?

 それをユングは、autiimatism オートマティズムと呼びます。「自動症」と呼ばれるかもしれませんが、「意識的に動くのではなくて、無意識で動かされてしまうこと」です。つまり、自分がやっていることが、自分がやりたいことではないこと。たとえば、お母さんが、自分の子どもがかわいいはずなのに、その子どもを眼にすると、ついつい怒鳴ってしまうし、時には手を挙げることさえある…。おかしいでしょ。でも、割とあることでもある。

 その背景には、ユングの言うfeelingtoned complex 「感情色の体験の塊」があるという訳ですね。これは非常に具体的、非常に実際的です。先のお母さん。どんな「感情色の体験の塊」があるのかしらね? それは、そのお母さんが子どもの頃、自分のお母さんから、辛く当たられていた、あるいは、そもそも相手にされなかった。すると、その繰り返しの体験が、「寂しさ」、「悲しみ」、「不満」、それから、「激しい怒り」、「殺したいくらいの憎しみ」…。そう言う「感情色」に、過去の体験が染まるんですね。それから、それは無意識の世界に潜み、意識とは無関係に、つまり、意識のコントロールを受けずに、日常生活に勝手に、土足で入り込んでくるわけですね。そして、これほど恐ろしいこともないわけですね。虐待、イジメ、押し付けの「教育」(謙虚を装って、「正しいこと」を押し付け、相手の気持ちや立場を一顧だにしない関わりなので、それはもちろん「教育」=引き出す、という意味の本来の教育の名に値しないことは、明々白々です)には、かならず、この「感情色の体験の塊」があるんですね。

 じゃあ、どうすればいいの?

 それは、衝動や悪い良心と同じです。逃げずに向き合うことです。つまり、意識することです。

 意識は、このように、光なのですね。

 

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