ルターは、考えられるすべてをやっても、心からの平安が得られませんでした。当然ですけどね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第2パラグラフの9行目途中から。
ルターは、こういったことは、ユダヤ教の「律法」に退却することだと考えたのでした。この「律法」においては、重箱の隅を楊枝でほじくるがごとき細々したことを守ることが、「ねばならないこと」をやりすぎている、とルターは感じたんですね。この細々したことを守らなければならない時には、ルターはよくよく知っていることですが、悪い良心が幅を利かせることになっちゃいますね。これは、毎日の一瞬一瞬を、小さな最後の審判の(訳注:コワーイ)時に切り分けることになります。こういった小さな「ねばならない」をすることで自分を救うことが、「良いこと」とされたが、その「良いこと」をいくらやったって、信頼を培うことにもなりませんしね、他の人に一時の平安をプレゼントすることにもなりませんよね。
こういう人は、すぐ分かります。表情が暗いでしょ。笑ってても、心からの悦びがないわけですからね。なんせ平安がないんですからね。眼が笑ってない。そういう人に限って、自分が目立つようなことをするわけですね。フェイズブックにやたらに自分の顔写真を載せたりね。ですから、すぐにそれと分かります。
心からの平安が得られますように。