「ねばならない」と思っていることをやっても、心からの平安が得られません。人から、あるいは、神様から、価値を認められて、初めて、心からの平安が得られるものです。その関わりが、「相手が得する、一方的な約束」なのですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第3パラグラフの5行目途中から。
ルターは聖書の言葉を、ゲルマン人らしく言い換えをしているものの1つで言ってます。「奇跡を起こして、全てのトルコ人を絞め殺しても、人を大事にすることに対して的外れをやれば、何の得があるでしょうか?(何の得もありゃしませんよ)」と。
これは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(新約聖書の「マタイによる福音書」第16章26節)の言い換えです。宗教改革前夜の15世紀末は、オスマントルコがヨーロッパに攻め込んでいた時代です。粗野なゲルマン人ならではの、トルコ人皆殺しの言葉も出てきます。でも、「命を失う」が、「人を大事にすることに対する的外れをやる」という言い換えは、非常に的を得た言い換えになっていると思います。命とは、個人に帰属しているように見えて、人間は社会的存在の部分が大きいですから、人と人のやり取りの中で、命の響き合いがないと、「自分」とは言えないからですね。仙人のような暮らしをしている人でも、ごく少数の人とは、命の響き合いがあります。命と命の響き合いは、ベタベタした関係ではありません。離れていても、心のやり取りがある信頼し合う関係です。
ベタベタはさっさとやめて、ピスティス(信頼)に生きましょう。