滝乃川学園本館 現在は「石井亮一・筆子記念館」東京都国立市谷保6312
アーメン、≪話し言葉≫がいまここで≪出来事≫になります!
「言っていること」と「やっていること」が一致していること。子どもの前では、最も大事なこと。 昔は、大学にもそう言う人物がいましたね。丸山眞男教授、...
さっき、「ハートネットTV」で、大島藤倉学園のことをやってました。川田仁子さんも出てましたね。あの人も長生きですね。
大島藤倉学園、と言われても、知らない人もいることでしょう。日本で4番目に古い知的障害児施設です。今晩も横道にはずれます。日本で一番古い知的障害児施設は、もともとは、「聖三一弧女学院」と呼ばれた、現在の「滝乃川学園」です。国立の実家の3軒隣りがこの滝乃川学園ですが、最初は、不忍池近くの、当時の言い方で言えば「下谷区(したやく)西黒門町」の、日本初の女医、荻野吟子の家にありました。1991年、明治24年岐阜あたりで濃尾大震災があり、多くの被災者が出ました。親を失った子どももたくさんいました。女の子たちは、売春組織、ヤクザに連れ去られたらしい。男の子たちも、弱みにつけ込まれたらしい。それに義憤を覚えた、たくさんのクリスチャンや仏教徒らが、その救済に全国から濃尾に馳せ参じ、たくさんの孤児院が出来ました。当時立教学院(現在の立教大学)を出たばかりの石井亮一は、立教女学院の教頭でしたから、16人の女の子を助けました。その中の2人が知的障害児だったと言います。それが最初の知的障害児施設、滝乃川学園の誕生物語です。その最初の16人の1人、「戸所(とどころ)のお婆さん」は、我が家によく遊びに来ていましたっけ。
2番目に古いのが、脇田良吉が京都に設立した、白川学園。3番目に古いのが、岩崎佐一が大阪に設立した、桃花塾(とうかじゅく)、4番目に古いのが、この川田貞次郎が伊豆大島に設立した藤倉学園ですね(津曲祐次,2011,滝乃川学園百二十年史)。すべて民間施設です。
先の番組では、1944年、昭和19年、伊豆大島が軍事要塞化しようとする時に、藤倉学園が陸軍に取り上げられ、清里の清泉寮(keep)に疎開した話が出てきます。30人ほどの利用生の内、一年余りの疎開生活の中で、10人の利用生が栄養失調で亡くなった。戦争は、弱い立場の知的障害児を「飢え」という形で、殺した、という話です。
私は、滝乃川学園に関わった者として、それだけではない、とハッキリと言いたので、今日このブログを書いている訳ですね。
こっちゃん(山中梢さん)。北九州出身の女性で、軽い知的障害がありました。滝乃川学園に昭和初期(1928年、昭和3年?)に入所し、成人してからは、厨房で調理員として働いていました。後に施設を出て、我が家のアパートに暮らしました。そのこっちゃんから直接聞いた話です。滝乃川学園にも「赤紙」が来たんですね。戦争は、知的障害の人も、戦場に連れていくわけです。こっちゃんによると、滝乃川学園の利用生の内、「2人(の利用生)が戦争に行き、帰ってこなかった」と言います。これは、津曲祐次先生がまとめた、『百二十年史』にも出てきません。
知的障害者も、戦場に連れてかれて殺されるのが、戦争です。私どもは、こんなひどい歴史があったことを忘れてはならないでしょう。