エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

魂の教師=ウソを言わないこと

2015-12-13 06:29:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
希望の源は光(子どもをハッキリと肯定する態度・言葉と温もりあるタッチ)
  私どもは、子牛と若いライオンが共に暮らし、再び戦いのことを学ばない世の中にしたいものですね。子どもたちには、そのように世界を残して、死んでいきたいものですよね...
 

 

 先ほど、「心の時代」で、無着成恭さんの話を伺いました。宮城まり子さんと同い年。御年88。やまびこ学校、生活綴り方で有名です。その番組の話を、備忘録的に記して、皆さんともシェアしたいと考えました。

 無着成恭さん、古い教師で、僧侶でもあるからなんでしょう、「教科を教えるだけでは、教師ではない」とします。「魂の教師」であることが求められるといいます。これって、ユングが、「カリキュラムを教えることは、教師の役割の半分以下」といったことと、通底してますね。

 しかし、じゃぁ、「魂の教師」とは、どういう教師なのか? 無着成恭さんは、敗戦前の教科書に墨を塗ったことを同時代的に知っている人です。それは、「教師がウソを教えていたことだ」という訳ですね。それを恥じて、教師を辞めた人もある程ですからね。たしか、三浦綾子さんがそうでしたね。ウソを教えることほど、悪意に満ちたことはないでしょ。子どもは、教師を信頼して、教育を受けているはずなのに、その信頼にウソで応じるほど、悪意に満ちたものはないですからね。無着成恭さんも、ウソを言わないことが、「魂の教師」の条件だといいます。

 でも、これって言い方が否定形でしょ。私は「本当のこと」を教えることが「魂の教師」の名に値する存在だと思いますしね。でも、「本当のこと」は、言葉で教えると同時に、その教師が「本当のこと」を生きていなくては、伝わりませんよね。ここで言う「本当のこと」は、人格的真理のことだからです。

 ですから、私は、「魂の教師」とは、「本当のこと」を子どもと、体験的に分かち合う人だ、と考えますね。

 

 

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ゲップやオナラ大好き人間 ルター

2015-12-13 05:48:07 | アイデンティティの根源

 

 

 
シンクロニシティ 子どもの不思議 その2
  リンゴ   リンゴを ひとつ ここに おくと  リンゴの この 大きさは この リンゴだけで いっぱいだ  ...
 

 ルターも、大食漢で大酒飲みと言われていました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.245の、第2パラグラフ、下から7行目途中より。

 

 

 

 

 

 ルターは、この種の食事を、「断食」と呼んだのは、食事をしても嬉しくないし、儀式をやるように食事をしていたからでした。同様に、ルターは、同時代人よろしく、ゲップやオナラを楽しんでいたに違いありません。ゲップやオナラは、お腹が満足した証拠でした。それは、痛みを感じたり、便秘になったりして、自由になっていく見通しが持てなくなるまでは、そうでした。しかしながら、あらゆる解剖学的な領域の中でも、ケツ程、悪意が支配するところはない、のです。

 

 

 

 

 

 ケツは、ものを出す場所でしょ。でも、人間から出ていくものは、目に見えるものばかりではない点に注意が必要です。気持ちや言葉のような、眼には見えないものも出ていきますでしょ。ケツは、その出ていくものの象徴です。ケツが悪意に支配される時、それは、眼には見えない気持ちや言葉も、悪意に支配されることの象徴になります。

 この悪意こそ、「人間を上下2つに分けるウソ」であり、そのウソにべったりくっついている、憎しみや激しい怒りなんですね。

 

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フィールドワークとしての哲学 実践哲学

2015-12-13 03:42:32 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人を大事にすることが、今の世の中、バラバラです。
  人を大事にすることは、口にできない相手の願いに応えることから始まるものですね。それは、infant、すなわち、口がfant、きけないin 赤ちゃんの願いに、お...
 

 精神分析の訓練されたセラピストは、クライアントの心模様を、時空を自由に動き回り、自他を自由に行き来しながら、理解する力を手に入れています。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p98の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 しかし、このように、それぞれの人生のサイクルを自由に動き回りながら、セラピストとクライアントの2人の、社会的な傾向や歴史的な傾向は相対的であっても、セラピストが解釈する考えも、精神分析の過去と今の概念と共に移っていきます。もちろん、男であれ、女であれ、教育分析をしてくれた人と、その他影響を受けた人達や流派との間にある、セラピスト自身の「世代的な」立ち位置も含まれます。また、セラピスト自身の知的ないろんな思索、職業人としても人としても、発達することと関連するいろんな思索も含まれます。しかも、それぞれ、新旧の臨床上のモデルや理論的なモデルやら、「その配置図」やらが、ご承知のように、臨床的な人品に生じた大事な変化に彩られてもいます。

 

 

 

 

 

 精神分析の在り方は、教育分析やら、精神分析のセラピーの中での位置づけやらの影響を受けます。でも、その中にあって、セラピスト自身の思索も大事だと、エリクソンは言いますでしょ。本当にそうだと思います。

 私が最も大事だと感じる思索は、心理学的な思索じゃぁ、ない。むしろ、人としての在り方、それも、子どもとの関係、と、その関係と人生の目的の関係ですね。それは、極めて哲学的であると同時に、非常にフィールドワーク的でもある、と強く感じていますね。つまり、最も大事なのは、実践哲学だ、ということです。

 

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振り子

2015-12-13 01:06:01 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
希望の源は光(子どもをハッキリと肯定する態度・言葉と温もりあるタッチ)
  私どもは、子牛と若いライオンが共に暮らし、再び戦いのことを学ばない世の中にしたいものですね。子どもたちには、そのように世界を残して、死んでいきたいものですよね...
 

 安心とゆとりが基本線になります。 

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.219の、第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私の友人で教員の、パッド・オーデンさんとピーター・レビンさんは、それぞれ、効果的な身体セラピー、感覚運動を用いるセラピー、身体経験を開発して、物事にうまく対処するようにします。こういった治療において、これまで何があったのか? という物語が、身体の感覚を探索することと、過去の発達トラウマが身体の何処に、どんな形で刷り込まれているのかを見つけることに、席を譲ります。トラウマそのものを目いっぱいに探索するよりも以前に、クライアントは、感覚や感情を感じても、安心していられる感じを育てるように、心の中に力を養うように助けてもらわなくてはなりません。その感覚と感情は、かつてトラウマを体験したときには、圧倒されるものでした。ピーター・レビンさんは、このやり方を「振り子」と呼んで、心の感覚やトラウマになった記憶に出たり入ったりします。このようにしてクライアントは、寛容の窓を徐々に広げていくのを手伝ってもらいます。

 

 

 

 

 

 相手の様子を見ながら、心の状態に入って行ったり、戻って来たり。それはセラピストの心がそうであると同時に、セラピストの動きも一緒です。ですからね、セラピーがなんだか、体育のパフォーマンスみたいになってくるわけですね。

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