日本の公教育の病理 その5 主権在民の忘れ物日本の学校がウソとゴマカシの組織になっちゃってんのは、1つには本物の「教育」を忘れているから。そこに偽物の「教育」が入り込み、蔓延ってしまいやすい。エリクソン...
恵みと律法の区別が出来ないこと、「したくてたまらないこと」と「ねばならないこと」の区別が出来ないこと、それは、日常生活がマンネリになっている証拠、ルーティーンになっている証拠です。礼拝が、毎日礼拝から、日曜礼拝に「堕落」してしまっているからです。
Young Man Luther 『青年ルター』p.244の、第2パラグラフの下から11行目途中から。
このように新規に、恵みと律法をごちゃまぜにするようになると、ルターは死に物狂いでいろんな方法を試してみました。自分で祈ってもダメなら、「主の祈りを、鳴り響くように祈ってくれ」と友達に頼んだりしました。そうすれば、神の声がまた聞こえるかもしれない、と思ったんでしよう。「キリストがあなたのところに来て、あなたに語りかけ、それがまるで、罪人のところに来るみたいに、まるで、モーセの所にやって来て『何やってんの?』と責め立てる時には、キリストを殺しておしまいなさい。でもね、キリストが神様みたいに、救い主として、あなたに語りかける時には、キリストの声に両耳をそばだてなさい」って、神様が言ってくれると思ったんてしょうね。この言葉の中で、行列の最中にあった発作の後でシュタウピッツが言ってくれた言葉を思い出すことで、ルターは自分を不動にして自由にさせていたことは、明らかなのです。しかし、シュタウピッツは、他の人達と同様、修道院にすでになく、バラバラになった、ルターの礼拝仲間でもなくなっていたのでした。
ルターがいかに困っていたのかが分かります。祈りの確信、手応えがない時には、得てしてありがちなことかもしれません。神様が「沈黙」しているように思えるからです。見捨てられた感じになるのは、まさにこの時でしょう。
でもね、本当の祈りを祈るのは、まさに見捨てられたと感じた時から、なんですけれどもね。