エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

バカデッカイ心のわだかまり の効用

2015-12-09 07:44:16 | アイデンティティの根源

 

 

 
ハーロー教授のやり口には、絶対反対!
 ハーロー教授の実験から、予定外に、「ひどく歪んだ母子関係が、人のビョーキの原因足り得る」ということが分かりました。今の先を言っていたことになります。エリクソンは、しかし、やは...
 

 ルターの課題を、重症です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.245の、1行目途中から。

 

 

 

 

 

 それから最後に、宇宙大の悪口ですね。ラテン語で「聖なる悪魔よ、祈り給え、私のために」。この手の言葉が示すのは、ルターの性格の特質を議論すべきだ、ということでしょう。ルターの性質の特質は、子どもの頃に抑圧してきたことが、活発にわだかまっていることを示してますよね。偉大な人間においてさえ、こういったことにわだかまっていることが分かったって、悦んでる場合ではありませんからね。私どもが当然と思うのは、偉大な者は、バカデッカイ心のわだかまりを内に秘めているものだ、ということです。

 

 

 

 

 

 フロイトにしても、ユングにしても、エリクソンにしても、内村鑑三にしても、その偉大さは、このバカデッカイわだかまりを生かしたおかげ、だったことは、確かですね。

 

 

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精神分析の場は、楕円形    内村鑑三にも似ている!

2015-12-09 06:10:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「買い物依存」etc. はこうして生まれる。
  モノ、カネさえあれば幸せなはずなのに、実際は…。 p85下から2行目途中から。    ...
 

 アインシュタインとフロイトは、似ていないようで、実は似ている。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p97の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 「精神分析の場」とは、セラピストの心とクライアントの心とを、お互いに相対的に動く「2つの共働する仕組み」として、描くことが出来る、と私は予てから主張しています。精神分析の出会いの中には、一見では、安らぎがありますし、面と向かわずに済むので、クライアントは「連想」が「自由に漂う」感じにもなりますし、その感じを強めることもできます。この連想は、ものすごいスピードで、遥かに昔のことから、今現在のことまで連想し、あるいは、怖かったことから、未来に望んでいることまで連想し、それと同時に、具体的なことや、空想や、夢の生活までも連想することが出来ます。

 

 

 

 

 

 精神分析の場のおかげで、クライアントが自由に様々なことを、様々なレベルで連想できるのは、クライアントとセラピストが、やり取りして共働する2つの人、楕円形になっているからですね。内村鑑三が言う「真理は楕円形」というときの楕円形です。

 この真理も「人格的真理」であるのは、さっきのブログと一緒です。

 

 

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メタノイア 視座を移す戦い

2015-12-09 05:37:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
ガザと飯舘村のあいだ 「人間の尊厳」を巡る戦い
  今日、ガザの弁護士ラジ・スラーニさんのインタヴューを伺いました。 http://www4.nhk.or.jp/kokoro/ スラー二さんのお話、ボン...
 

 メタノイア、と言われても、メンソレータムの一種かなぁ、と思う人もいるかもしれませんね。メタノイアは、ギリシア語で、μετανοιαです。μετα=変化+ νοια<心、理性、ですから、心を入れ替えることを意味します。でも、「心を入れ替える」、「ものの考え方を切り替える」、と言うと、知育中心主義、科学的真理しか教えないことが多い、それでも、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもだらけで、なかなか学習が進まない、現在の日本の学校教育制度の中では、その知育や科学的真理もままならない状況が、日本全国津々浦々を覆っている状況です。ですから、うまくはできないけれども、その考えを変える程度に、頭デッカチに理解されがちですね。これが、「愛着」や「根源的信頼」を知的に理解する誤解と一緒で、大間違いのもとです。

 メタノイアも、「愛着」や「根源的信頼」も科学的真理ではありませんからね。人格的真理です。それは、知的に十分に理解することなどできません。人格的真理は、それを生きてみなければ、真に理解したことにならないからです。「祈り」そのものも人格的真理ですから、単に知的に「お願」と理解すると、あちこちで街歩きをして、その時の自分の顔写真を撮って、フェイスブックで自分の顔写真を “見せびらかす” ことを「プレアオーク」「祈り」だ、神様の名までを出して正当化する、とする大間違いを犯すことにもなりますもんね。同じことです。気分だけの、偽物の「ヘボなクリスチャン」にありがちです。

 メタノイアは、従って、日々の生活の中での戦いと、ほとんど同じことですね。日本の社会の中にある、抑圧構造、イジメの構造、貧富の格差を広げる構造、得する者と損する者を固定化・拡大化する構造と、意識的に戦うことと、ほとんど同義語です。ですから、それは、国の政治だけではなく、日々の小集団の中で、権力的に、あるいは、弱い立場の人を陰に陽に、イジメるような、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちや、隣りの「アイヒマン」、組織のウジムシ、イジメの張本人と闘うことですね。

 これは、各地で良心的な働きをしている人、たとえば、釜ヶ崎の本田哲郎神父や、今晩のコラムのラジーニさんの働きから学べることでもありますね。

 

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小さな≪私≫誕生 !!

2015-12-09 00:35:17 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 
ガザと飯舘村のあいだ 「人間の尊厳」を巡る戦い
  今日、ガザの弁護士ラジ・スラーニさんのインタヴューを伺いました。 http://www4.nhk.or.jp/kokoro/ スラー二さんのお話、ボン...
 

 タッチ、触れられることは、気付きの始めです。 

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.218の、第6パラグラフから。リシアさんの言葉は、まだまだ、まだまだ、まだまだ続きます。『大きなかぶ』と同じですね。

 

 

 

 

 

 「身体が物理的に抑制されるのは、いろんな感情が内側に閉じ込められている時ですよね。肩が凝ったり、表情筋が緊張していたり…。そういう人達は、とてつもないほどのエネルギーで、涙をこらえている訳ですね。どんな音を出しても、どんな動きをしても、心と裏腹です。緊張が緩んでくると、感情も出てきます。動きが出てくると、息もそれだけ深くなりますし、緊張が緩むほどに、気持ちを表す音も出せるようになります。身体がだんだん解放されて、息が一層深く、流れるようになります。タッチされ、触れられると、人の動きとやり取りする中で、身体を動かせるようになります。」

 

 

 

 

 

 ここも実にお見事ですね。日頃、子どもとの無言のやり取りをこれだけはっきりと言語化した文書は、エリクソンのもの以外では、初めてですね。リシアさんは、只者ではありません。ヴァン・デ・コーク教授も、リシアさんのボディーワークを観察して、それを感じたからこそ、こうして、彼女との対話を事細かく記しているのでしょう。

 言葉のやり取りが始まる前に、身体のやり取り、タッチや動きのやり取りが先にあります。その微妙なタッチや身体の動きを、相手の呼吸や動きに合わせる中で、セラピストがやり取りにしていくんですね。すると、やり取りに飢えている子どもは、そのやり取りの切っ掛けにすぐに気づきます。それで、子どももこちらに動きやタッチに応じてくれるんですね。こうして、やり取りが生まれます。そして、その分、子どもの中に、小さな≪私≫が生まれます。

 

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