幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理どんな技術でも、その目的を忘れて使う人間は、最も人間らしいものを失っています。それは、大川小学校の「事件」で明らかなように、どんな組織でも、その目的を忘れてし...
本物は受け上手。攻められることが、最大の攻撃になる不思議。
Young Man Luther 『青年ルター』p.244の、第2パラグラフから。
ルターがその声にいくら口答えをしたって、ダメでした。「僕は『医者』だぞ」、「知るように叙階されてるんだ」、「スタウピッツから、説教者になれ、と言われてんだから」…。それはみーんな、自分の社会的地位や仕事でしなくちゃならないことに基づいてたんです(これは、中年の男たちがよくやる手でしたね)。仕事は、上から命じられたものです。ここでも、この世で「ねばならないこと」と、神の恵みとを、区別することが出来ません。モーセ(の律法)を、キリスト(の恵み)とを、区別出来ません。
「ねばならない」ことと、神の恵み。永遠のテーマです。
人ははじめは、神様との関係で感じた、圧倒的で、しかも、静かな悦びを感じると、それは、畏れ多くも、比べようもない悦びを忘れことが出来ません。そして、何度でもその悦びを味わいたい。そこに特定の形もなければ、決まりもありません。しかし、その悦びを味わおうとして、今度は同じことをするようになりますでしょ。それがいつの間にやら、特定の形になり、決まりになってしまいます。神の恵みの悦びだったことが、割合と簡単に、特定の形となり、決まりとなってしまいます。
「ねばならない」と思ってやる日曜礼拝やおミサも、もともとは、このようにしてできました。それは悦びを再体験、追体験するためのものでしたけれども、その体験がなくなった後でも、「ねばならない」ことだけが残る…ということが起きる所以です。
悦び、それがいつでも肝心です。