エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

無意識は、魔女に似ている! ウンコとダイヤモンド

2015-12-14 08:10:41 | アイデンティティの根源

 

 

 
今どきの、大人も、子どもも
  人間にとって、一番大事な、人を大事にすることそのものが、バラバラになっているところに、今という時代の病理があります。 p87下から4行目から。&nbs...
 

 ルターは、ゲップやオナラまで大好きな、極めて、お下品な人柄です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.245の、下から3行目途中より。

 

 

 

 

 

 ルターは物事をハッキリ言う場合が多い。それは、今の時代、フロイトだけが、『これこれ、なんですね』と認めることが出来るような、不安神経症の形に、コッソリと、象徴的に、しかも、無意識裡に現れます。フロイトは自己分析で決定的な展開点に達したことによって、人間にケツという、もう1つの出口があることの重要性を、イキイキと理解できました。このケツは、ウンコと臭いオナラの生産工場ですし、世間に顔向けしている顔とは反対側にありますでしょ。フロイトは、ケツのこういったことすべてが、無意識にも当てはまることに、初めて気づいた時、フロイトがビックリしたのは、無意識が「魔女に似ている」、ということでした。つまり、魔女は、下から、背後から、ウンコを出すように、人々に地獄の苦しみを及ぼそうと、手ぐすねを引いてる訳ですね。

 

 

 

 

 

 精神分析の基本的な立ち位置を、明らかにした箇所ですね。顔に対してケツは裏側、意識に対して無意識は裏側、で、ケツと無意識は御親戚、とするのが、精神分析の基本的な立ち位置なんですからね。

 それに対して、このケツ、ウンコの中に、ダイヤモンドが見つかる場合がある、ということを教えてくれるのが、ユング心理学の特色です。

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「なるほどなぁ」「人生は、うまくできてるなぁ」と気付く、あの光 改訂版

2015-12-14 07:17:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
【最重要事項】フェイス・トゥー・フェイスで、微笑み合うこと
 この世の中で、≪やり取り≫ほど大事なものはない。 p231第2パラグラフ。      私でしたら...
 

 精神分析の訓練されたセラピストには、実践哲学が必ずあるものです。それがないセラピストは、ゼネコン業者の孫請けよろしく、子どもまで届かない杭しか打てませんよね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p98の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 こういった関連する動き全てを、コントロールすることをかなり意識出来るように、ポテンシャルとして、なると、あるいは、私は、控えめに、と申し上げてきたのですが、控えめに意識できるようになると、精神分析のセラピストは、≪癒しの時≫にピッタリと叶ういろんな解釈に繋がる、癒しと気付きをもたらす「内なる光」である内省に至る望みも、巧みに手に入れられます。このような希望に満ちた解釈は、セラピストにも、クライアントにも、等しくビックリするようなサプライズになる場合が多いんですよ。しかも、この解釈は、セラピストとクライアントが、「その人らしさ」を全うし、人間が発達の道すじ通りである、と解釈できることに、ビックリなんですね。このようにして、クライアントの人生行路が、セラピストとクライアントが出会った時に放たれる、あの光の中で、ハッキリする時、解釈が癒しになります。発達上でも、歴史上でも「なるほどなぁ」、「人生は上手く出来てるなぁ」と感じる気付きが増えると、癒しが訪れますね。

 

 

 

 

 

 これも見事な記述ですね。人が癒されるのは、「なるほどなぁ」、「人生は上手く出来てるなぁ」と感じる気付きが、与えられる時でしょ。それは、セラピストとクライアントが光に照らされるからです。その光とは、希望に満ちた意識なんですね。

 

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わが人生の主人公であるという感じ

2015-12-14 04:08:50 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
【最重要事項】フェイス・トゥー・フェイスで、微笑み合うこと
 この世の中で、≪やり取り≫ほど大事なものはない。 p231第2パラグラフ。      私でしたら...
 

 安心とゆとりが基本線になりますから、ティク・ナット・ハーンさんがやるような、呼吸や散歩をしながらのマインドフルネスも、ピーター・レビンさんがやってるような、感覚運動的なセラピーも、セラピストが注目しているのは、身体ではなくて、心の動きの方なんですね。そこが一流のセラピストなのか? 三流以下でしかないセラピストなのか? の分かれ道です大学院の教員でも、三流以下がヘッチャラでいますからね。しかも、その心の動きと言っても、それも狭い認知などではなくて、感情、気持ち、感じ、エリクソンが言う感じsenseの動きですね。この場合、何よりも大事なのは、感じsenseなんですね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.220の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 クライアントの皆さんは、発達トラウマが元のなっている身体経験に気付いても、我慢できるようになりますと、強烈な身体の衝動を見つけやすくなんですね。この強烈な身体的衝動とは、打つたり、押したり、走ったりというようなものでして、トラウマがある間に湧き上がる衝動なのに、生きるために押し殺している衝動でもあるんですね。こういった衝動が表に現れるのは、ねじったり、振り返ったり、後ずさりしたりする、微妙な体の動きです。こういったいろんな動きを増幅して、その動きを修正する方法を実験することは、不完全な、発達トラウマに関する「行動傾向」を、全うし、最終的にはトラウマを癒すことの始まりなんですね。心身的なセラピーをすれば、クライアントたちは、いまここに自分を生かせようになります。それは、動いても大丈夫だと分かるからです。上手く出来たという悦びを感じれば、自分は「わが人生の主人公であるという感じ」が回復しますし、自分自身を上手に守ることが出来る感じも回復しますよ。

 

 

 

 

 

 セラピーの目的はハッキリしてますね。自分が人生の主人公だと、クライアントに感じてもらうことです。わが人生の主人公であるという感じの回復です。

 みなさん、発達トラウマとは、私関係ございません、と言う顔をしていても、果たして、「わが人生の主人公であるという感じ」を日々感じて生きているか? 一度手を胸に当てて考えていてはいかがでしょうか? 

 

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魂の教師と仏性 捕捉版

2015-12-14 01:51:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
今日の応用問題 バラバラになった人間 選挙に行きましょう!
  フロムが、The Art of Loving 『人を大事にする術』を出版したのが1956年、今から58年前のこと。フロムは当時のアメリカ社会をベースにして、も...
 

 

 昨晩は、無着成恭さんの「魂の教師」でしたでしょ。備忘録的にメモを書きましたけれども、肝心なところが抜けてたみたい。それで、今晩こそ、その肝心要をメモしときましょう、ってなわけですね。

 それは、「仏性」です。無着成恭さんは曹洞宗の僧侶でしょ。道元禅師の流れです。宮崎奕保禅師(宮崎奕保禅師)と一緒ですね。無着成恭さん、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」ということを言ってました。インタヴュウアーの三宅アナにその意味を解説してましたね。生きとし生けるものには、悉く仏性がある、ということです。「仏性」。「自己」のこと、≪本当の自分≫のことだといっていいと私は考えます(仏道は自己なり)。

 無着成恭さんは、子どもひとりびとりに、≪本当の自分≫があることを認めて、≪本当の自分≫を生きることを、身をもって伝えていたことになります。それが、やまびこ学校の目的であり、生活綴り方の目的でもあったし、その後仏門に入ってからの目的も、≪本当の自分≫を生きることだったはずですね。

 この≪本当の自分≫の特色は、その、ご当人も、その人が属する組織も、その人がメンバーである社会も≪超越≫している点にあります。≪超越≫する点で、神様と全く同じです。ですから、無着成恭さんは、今の学校でしばしばやるように、子どもを操作の対象にしなかった、コントロールしようとしなかった。むしろ、無着成恭さんの方が、その子どもの≪本当の自分≫に対して、どこまでも、謙虚な気持ちになって、大事にする、という関わりをしたところに、この人の教育の特色があると確信しますね。

 今の日本の学校教育で、最も欠けているのが、子どもをどこまでも、謙虚な気持ちになって、大事にする、と言う点です。無着成恭さんによれば、敗戦後の民主主義教育が変質したのは、池田内閣の所得倍増計画以降だ、と言います。それ以来、日本人は、悪魔に魂を売ってるんですね! しかし、よく考えたら、「教育基本法」の「人格の完成」という教育の目的の中にある「人格」も、本来は≪本当の自分≫と同じ、教員がコントロールできるはずもない≪超越≫でしょう

 

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