エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神の愉快なパルティザン 自分に囚われない態度  顔出しの、なか・さんに、クリスマスプレゼント

2015-12-26 20:07:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
きよしこの夜
  今日はクリスマスイヴ。どんな夜を過ごされましたか? クリスマス礼拝に行って、ご馳走を食べて来た人。家族で過ごされた人。1人でゆっくりした人。いろいろでしょ...
 

 「神の愉快なパルティザン」。神学者カール・バルトが、雑誌で自分の特集が組まれたときに、自分のことをこう呼んだといいます。

 カール・バルト。彼の未完の大著『教会教義学』は、「プロテスタントの神学大全」と呼ばれることがあるとか。しかし、カール・バルトは決して、研究室に留まって、研究だけをするタイプでは全くありませんでした。ヒットラーと渡り合い、ヒットラーと戦う告白教会のリーダーであり、その精神的支柱となる「バルメン宣言」を起草しています。神学者の、あるいは、牧師の、そして、クリスチャンの社会的責任に、自覚的な人だったと思います。

 それじゃぁ、カール・バルトは、生真面目一本かと言ったら、むしろ、逆でしょう。カール・バルトの授業に、ドイツ留学中に、出席された、東北大学名誉教授の宮田光雄先生によれば、その授業は、カール・バルトが飛ばすジョークで、笑いの連続だったとか。神学と言っても、なじみのない方も、少なくないかもしれませんね。神学に一番近いのが哲学です。哲学の授業と言ったら、言葉遣いからして堅苦しくて、いかにも難しそうですよね。「哲学」と「笑い」は、いわば、反対語のように感じても、そんなに、オカシナことではないのじゃないですか? いわば、二律背反が同居しているような授業を、カール・バルトはしていた…。それは、カール・バルトの精神が、いかに自由で、しかも、いかにイキイキしたものだったか、を物語るものだったと言えるでしょう。

 ヒットラーとの戦いと、「神学」と「笑い」の両立を可能にしたものは、いったい何だったのでしょうか?

 キーワードは、「究極の一歩手前の真剣さで」ということらしい。こう言うと、なんでも茶化す様な態度と誤解する人も、あるいは、おられるかもしれませんね。しかし、そうではありません。真剣に取り組むものの、その真剣さに自分が飲み込まれない。ムキにならない。したがって、真剣さと遊び、真剣さとゆとりが同居している。なか・なか・、難しいですよね。

 それは、神様だけが究極であることを、心の底の底から、信頼しているからこその態度ではないですか? 神様以外の、この世のことは、自分も含めて、神という究極から見て、相対化されている…。だから、絶対権力に思う人もいたし、ハイデッカーでさえ、おもねっていたヒットラーにも敢然と、しかも、したたかに、戦いを続けられたし、神学さえも、笑いの包んで、講義することが出来た。

 これは、自分に囚われない態度が、神様からプレゼントされているからでしょう。

 この点は、ご自分の子どもたちに「自分に死になさい」と教えていたという、関根正雄先生とも、相通じる点だと、私は感じています。

 神様の名前を、濫用・悪用・盗用して、毎日フェイスブックに顔出ししたくてたまらない人が、キリスト者でないことは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが、邪悪な政治家と言うのと同じくらい、火を見るよりも明らで、「確実」なことなのです。

 面白いでしょ。

 笑いと真剣さで、私どももやってまいりましょうよ!

 

 

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強情と怯えの間を行ったり来たり… 国会前のサンプル参照してね

2015-12-26 15:14:47 | アイデンティティの根源

 

 

 
レッドリスト入り:人を大事にする気持ち
  フロイトは、フロムによれば、放縦を是認するようなことは一言も言っていない。 p93の3行目から。   &nb...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。神様を日々冒涜している人は、強情ですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、2行目途中より。

 

 

 

 

罰の時に「お尻ペンペン」となる大切さを、示してきましたよね。お尻を打っても、身体の心配はしなくてもいいけれども、情緒的には危険な部分でもあります。というのも、罰を与えることは、親の意志と赤ちゃんの意志がぶつかるお尻の意味を台無しにしてしまうからです。親たちや教員たちが、ルターを完全に従えて、子どもの意志と大人の意志がぶつかるお尻を支配するかもしれない、という心配があると、マルティンが反抗するという時限爆弾が爆発するのを遅らせるダイナマイトを仕掛けることになりますし、だからこそ、ルターは最後まで、強情な反抗心が残り、反抗しない時には、自分自身は「もうダメだぁ」と落ち込んだ気分になったことの説明にはなるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 得てして、トイレット・トレーニングが行き過ぎになると、強情と怯えが同居することになります。に散歩に出かけても、いつ見ても、怯えた顔をしている人のなか・に、ここでエリクソンが教えてくれる通りのことが、具体的に示されているでしょ。不思議ですね。

 あの人が国会に行ってくれるおかげで、このブログの読者の皆さんも、エリクソンがここで言ってることが、国会前のサンプルを参照しながら、理解が進みますでしょ。

 世の中に無駄はない、という訳ですね。

 

 

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3つの時間と 一人静か

2015-12-26 14:53:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
女性が女性らしく生きられる社会
  この内的力が無意識下の力。「恵みであると同時に呪いである」と言ったのが、かの有名なユング。 p234下から2行目途中から。  ...
 

 

 大人のセラピーの場合、セラピストの内省が、幾重にも問われるらしい。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p101の、最後の行から。

 

 

 

 

 

 大人たちのことを議論している時、パール・キングの研究が、皆が分かる形で、中年か、それ以上に移ってきました。そこで、パールが指摘したのは、人は3つの時間を生きている、ということです。すなわち、暦通りの時間、バイオリズム、心理的な時間です。この3つは、人倫、身体、魂に、ピッタリと見合うものです。なぜならば、時代の価値を、時代に投影するのが、人倫だからですし、身体は、生き物としての部分をコントロールしているからで、魂は、経験した時間をコントロールしているからです。

 

 

 

 

 

 私どもも、3つの時間を生きているのでしょうか?

 暦の時間を過ごしていない人は、いないのかもしれません。

 バイオリズムも、それぞれの人にあるはずです。

 でも、魂の時間を、皆さん生きていますか? 忙しい毎日を送っていても、決まった時間に、お祈りや内省が出来ていれば、魂の時間を持てているといえるでしょう。1人静かな時間です。

 「そんな時間は持ててません」という人は、是非…。

 

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言うは易し、行うは難し

2015-12-26 04:23:16 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
きよしこの夜
  今日はクリスマスイヴ。どんな夜を過ごされましたか? クリスマス礼拝に行って、ご馳走を食べて来た人。家族で過ごされた人。1人でゆっくりした人。いろいろでしょ...
 

 認知行動療法ーCBTは、恐怖に意識的に飛び込むもの。まるでバンジージャンプ。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.222の、第5パラグラフから。今日からCBT 認知行動療法です。

 

 

 

 

 

 認知行動療法の背景をなす考え方は、クライアントがトラウマのもとになっている刺激に繰り返しさらされても、別にどうってこともない、ということになれば、次第に気が動転することもなくなるはずだ、ということです。つまり、思い出したくない、悪い記憶でも、「強制的に」、安心して大丈夫、って、連想させちゃえ、ってな訳ですね。CBTも、クライアントが「触れられたかぁないや」という気持ちを手当てします。たとえば、「そのことは、話したくありません」というときみたいな時ですね。簡単だと思うかもしれませんけれど、ご承知のように、トラウマを追体験ことは、脳の中でサイレンが繰り返し鳴ることですし、過去にまとまりを付けるのに必要な脳の部位を働かなくさせるものですから、クライアントは、そのトラウマを解決するよりも、そのトラウマを繰り返し再体験することになってしまうんですね。

 

 

 

 

 

 いったん恐怖心に結びついたトラウマ体験を、安心に強制的に結びつけるのが、CBTの基本的コンセプトだ、と、ヴァン・デ・コーク教授は教えてくれています。これは「言うは易し、行うは難し」そのものですね。

 

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