「神の愉快なパルティザン」。神学者カール・バルトが、雑誌で自分の特集が組まれたときに、自分のことをこう呼んだといいます。
カール・バルト。彼の未完の大著『教会教義学』は、「プロテスタントの神学大全」と呼ばれることがあるとか。しかし、カール・バルトは決して、研究室に留まって、研究だけをするタイプでは全くありませんでした。ヒットラーと渡り合い、ヒットラーと戦う告白教会のリーダーであり、その精神的支柱となる「バルメン宣言」を起草しています。神学者の、あるいは、牧師の、そして、クリスチャンの社会的責任に、自覚的な人だったと思います。
それじゃぁ、カール・バルトは、生真面目一本かと言ったら、むしろ、逆でしょう。カール・バルトの授業に、ドイツ留学中に、出席された、東北大学名誉教授の宮田光雄先生によれば、その授業は、カール・バルトが飛ばすジョークで、笑いの連続だったとか。神学と言っても、なじみのない方も、少なくないかもしれませんね。神学に一番近いのが哲学です。哲学の授業と言ったら、言葉遣いからして堅苦しくて、いかにも難しそうですよね。「哲学」と「笑い」は、いわば、反対語のように感じても、そんなに、オカシナことではないのじゃないですか? いわば、二律背反が同居しているような授業を、カール・バルトはしていた…。それは、カール・バルトの精神が、いかに自由で、しかも、いかにイキイキしたものだったか、を物語るものだったと言えるでしょう。
ヒットラーとの戦いと、「神学」と「笑い」の両立を可能にしたものは、いったい何だったのでしょうか?
キーワードは、「究極の一歩手前の真剣さで」ということらしい。こう言うと、なんでも茶化す様な態度と誤解する人も、あるいは、おられるかもしれませんね。しかし、そうではありません。真剣に取り組むものの、その真剣さに自分が飲み込まれない。ムキにならない。したがって、真剣さと遊び、真剣さとゆとりが同居している。なか・なか・、難しいですよね。
それは、神様だけが究極であることを、心の底の底から、信頼しているからこその態度ではないですか? 神様以外の、この世のことは、自分も含めて、神という究極から見て、相対化されている…。だから、絶対権力に思う人もいたし、ハイデッカーでさえ、おもねっていたヒットラーにも敢然と、しかも、したたかに、戦いを続けられたし、神学さえも、笑いの包んで、講義することが出来た。
これは、自分に囚われない態度が、神様からプレゼントされているからでしょう。
この点は、ご自分の子どもたちに「自分に死になさい」と教えていたという、関根正雄先生とも、相通じる点だと、私は感じています。
神様の名前を、濫用・悪用・盗用して、毎日フェイスブックに顔出ししたくてたまらない人が、キリスト者でないことは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが、邪悪な政治家と言うのと同じくらい、火を見るよりも明らで、「確実」なことなのです。
面白いでしょ。
笑いと真剣さで、私どももやってまいりましょうよ!