エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

偽物の証拠、その2 聴く耳がない アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちと同じ

2015-12-21 08:52:40 | アイデンティティの根源

 

 

 
「バレなきゃぁ、いいや」は、バレまっせ!
  「バレなきゃいいや」ではなく、「良心に従ったら、こうせざるを得ない」を選ぶ生き方  パレーシアにおいては、あるいは、パレー...
 

 神様を日々冒涜している人って、具体的には、祈りがない人です。祈りがない人は、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちみたいに、「聴く耳」がありません

 Young Man Luther 『青年ルター』p.247の、第2パラグラフより。ルターのことばが引用されている箇所です。

 

 

 

 

 

 というのも、私はお祈りする時に、同時に呪いをせずにはできませんから。私が「御名を崇めさせ給え」と祈りたいと思う時、「ローマ教皇の名前は、呪われろ、地獄に落ちろ、神から雷が落ちろ」と付け加えずにはいられません。「御国を来たらせ給え」と祈りたいと思うときに、「教皇は、呪われろ、地獄に落ちろ、打つ壊しにしろ」と付け加えずにはいられません。実際、私は、話し言葉にして祈る時も、心の中で祈る時にも、必ず、ローマ教皇を呪う呪いをいつでも付け足してました。

 

 

 

 

 

 強迫性神経症の人がよくやる手ですね。「自己満足」の要素を付けたすんですね。それは言い訳であり、口実なんですね。一種の裏取引ですね。裏取引をして、自己満足を自己正当化するんです。

 おしなべて、「聴く耳」がない証拠です。見てればハッキリ分かります。


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記録を書く時に、思いを巡らせておきたいこと

2015-12-21 08:00:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
いつでも2番目にしか大事にされない
  褒められれば天にも昇り、貶されれば地に落っこちる、といった連続になる人生。 p912行目途中から。   &n...
 

 「浄化されたやり取り」とは、大人や強い立場の人が、ひとまず自分のことは脇において関わり合いに応じていく、そういうやり取りですね。神様が私どもにしてくださるやり取りの最初に、一方的にプレゼントから始めて下さるのに、ちょっと似ています。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p100の、第1パラグラフの下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

子どものクライアントは、じっさい、セラピストの役割をチャァンと分かってんですね。あるいは、ナウバウアーが、「束の間の転移」関係とか、「治療同盟」とか、呼ぶ絆をセラピストと結ぶのを、チャァンと分かってんです。でもね、大人が、「人間を上下2つに分けるウソ」を信じて「大人の方が上だ」と身勝手に勘違いが、もう1つ見つかるんじゃぁ、ないですか? それは、子どもや青年と精神分析の治療をする際の転移を議論する時に、自分よりも年下の人やその親との関係において、避けて通ることなどできない「対抗感情転移」について、真面に取り合ったためしがないという事実に現れてんでしょ。

 

 

 

 

 

 この対抗感情転移は、やっぱり一度は考えないとダメでしょうね。でも、それだけじゃぁ足りない感じです。定期的に、出来れば、一回一回の面接の後で、記録をまとめている時に、「今日はどうだったかなぁ?」という感じで思いを巡らすことの中の1つに、この対抗感情転移についてがあることが理想的ですね。

 

 

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西村秀夫先生 その気付きと畏れ

2015-12-21 02:40:48 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
「バレなきゃぁ、いいや」は、バレまっせ!
  「バレなきゃいいや」ではなく、「良心に従ったら、こうせざるを得ない」を選ぶ生き方  パレーシアにおいては、あるいは、パレー...
 

 西村秀夫先生。私の魂の恩師です。

 昨日、12月20日は西村秀夫先生の誕生日。1918年のお生まれですから、ご存命ならば、97才。実際は、亡くなられて、今年で10年になります。私は、今から30年前の夏に、集会に参加することを許されて、その9月から実際に集会に参加するようになりました。

 いま手元にある、すぐ出てくる資料で、一番古いものは、1991年のものです。その中に、西村先生が、「内村鑑三不敬事件100年」シンポジウムに参加した感想文があります。

 西村先生は、内村鑑三が教育勅語にの対する礼拝を拒否したのは、神以外を礼拝してはならないとする、モーセの第1戒を守ったことだといいます。そして、この「火の試練」によって、内村鑑三の神様への信頼も「焼き清められた」という訳ですね。確かに、内村鑑三が体験したみたいに、国家権力から直接弾圧を受けて、職場も妻も友人も失う試練を体験することは稀かもしれません。しかし、各々が、小さな「火の試練」によって、神様への信頼が焼き清められるものだと思います。

 権力と闘うことは、弱い立場の人を、人間として尊重することだ、と言うのが、西村秀夫先生の基本的なスタンスです。その点を、いつでも心していたいと願う私です。しかし、西村秀夫先生の真骨頂は、そこにあるのではありませんね。この先生の特色は、権力と闘うことと、自分が自己中心に傾きやすい質と闘うことがパラレルであった点にある、と私は考えています。この後段がない場合、権力と闘うといっても、薄っぺらな場合が多いんじゃないかしらね。偽物でも、言葉だけの権力批判はしてますからね

 偽物と本物を峻別するのは、西村先生がそうであるように、自分が己中心になる質であることに対する気付きがあることと、自己中心を焼き尽くす神に対する畏れです。

 この気付きと畏れとを、与えられながら、生きたいものですね。

 


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苛酷な発達トラウマ

2015-12-21 01:27:11 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
最深欲求に応える生き方の向き
  黄金律について、エリクソンはどのようなに結論を言おうとしているのでしょうか? p.233第3パラグラフ。   ...
 

 発達トラウマの場合、物語を語るだけでは、セラピーは完結しないらしい。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.221の、第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 これ(発達トラウマは、物語っただけでは、セラピーが終わりになりないこと)には、訳があります。人が一般的な出来事を記憶する時には、その出来事に関係する、いろんな身体感覚、いろんな感情、いろんなイメージ、いろんな臭い、あるいは、いろんな音を改めて繰り返しません。反対に、十分にトラウマを思いだす時には、その経験を「身に着けています」。トラウマのある人たちは、過去の感覚や感情によって、圧倒されています。スタンとウテ・ローレンスは、第4部で示した事故の犠牲者ですが、その脳のスキャン画像を見れば、過去の感覚や感情によって、人が圧倒される様が分かります。スタンがその恐ろしい事件を思いだす時に、脳の2つの大事な領域が空っぽです。つまり、時間や見通しの感覚を提供する領域、「あれは昔の話、今は大丈夫」と分かる領域と、トラウマに関わる、いろんなイメージ、いろんな音、いろんな感覚を、筋が通った物語にする領域、が空っぽでした。脳のこの部分が働かないと、何かを経験しても、初めも、中間も、終わりのある出来事にはならずに、いろんな感覚、いろんなイメージ、いろんな感情がバラバラなままなんですね。

 

 

 

 

 

 重たい発達トラウマがある場合は、本当の過剰反応ですからね。普通は愛着を感じるだろう、イナイ・イナイ・バーも恐怖、タッチも恐怖、なんですからね。そうすると、自閉症の人みたいに、パーソナルスペースを犯されることに極端な恐怖を感じやすいのにもかかわらず、自閉症の人とは異なり、その境界は、あいまいです。

 いろんな感覚、いろんなイメージ、いろんな感情がバラバラなままだというのは、実に残酷なことですね。アメリカの愛着・トラウマセンターのデブラ・ウェッセルマンさんや、ウェストオンタリオ大学教授で、やはり精神科医のルース・ラニウス教授が言うように、子どもの内にセラピーをしておかないと、様々な精神疾患になるというのも、うなづけます。

 

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