エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

映画「母と暮らせば」 祈り

2015-12-24 18:01:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
永久革命のためのパレーシア
半蔵門右手の桜田濠  「パレーシア」がレトリックと対立する伝統  パレーシアの主なやり方が、対話であることがハッキリしまし...
 

 

 井上ひさしさんのこまつ座の舞台は、新宿紀伊國屋サザンシアターホールなどで、何度か見てきました。「太鼓叩いて笛吹いて」「木の上の軍隊」「組曲 虐殺」…。井上ひさしさんの、反権力、平和主義を、小難しいことではなくて、面白おかしい中で、学べる感じが好きなんですね。

 山田洋二監督が「井上ひさしさんへのオマージュです」と言うからには、ぜひ見て見たい、と感じたのが、映画「母と暮らせば」ですね。以前BSで、宮沢りえさんと原田芳雄さん主演の「父と暮らせば」の映画も見ていますが、やはり映画館で見た方が、より臨場感がある感じです。

 ネタ晴らしが趣旨ではないので、ストーリーは語りませんが、この映画には、山田監督の祈りを感じましたね。国会前に朝っぱらから散歩に出かけている人のなか・には、ルサンチマン、呪い(同じことですが、褒めてほしい、評価されたい…)を感じるのとは対照的に、この映画のなか からは、祈りを感じたわけですね。

 プロローグにおける、インク瓶が溶ける、爆発音が轟くシーンと、ラストにおける、坂本龍一さんの「鎮魂歌」を長崎の人々が歌うハーモニーのコントラスト。山田監督が、あんな耳をつんざく様な音も、ハーモニーにしてしまうほどの信頼感に満ちていることを感じない訳にはいかない、という訳ですね。

 私どもも、信頼感に満ちた本物でありたいものですね。

 

 

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祈りのなか 呪いのなか なかなかのなか・さん

2015-12-24 07:08:52 | アイデンティティの根源

 

 

 
永久革命のためのパレーシア
半蔵門右手の桜田濠  「パレーシア」がレトリックと対立する伝統  パレーシアの主なやり方が、対話であることがハッキリしまし...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。神様を日々冒涜している人は、今日も、バカ丸出しです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.247の、第4パラグラフより。

 

 

 

 

 

 子どもの頃、自我がおしなべて身体の自我であり、身体が経験するあらゆる喜びと緊張から成る場合は、栄養を摂る過程が、空想の上で、自分のモデルの特徴になる感じです。栄養を摂るのも、毒を喰らうのも、消化するのも、排泄するのも、自分のモデルになりますけれども、それは、食べ物だけじゃなくて、良い影響でも、悪い影響でも、それを取り入れることも、自分のモデルに、なっちゃいますね。祈りや呪いも、現実の背後にあって、人格に取り込む力に向かう、本来備わっている、正邪相半ばする、2つの側面を、引き継ぐ場合があります。祈りは、神の言葉を聴き入れる信頼に満ちた状態です。ラテン語では「神と共に」と言って、ルターが大好きな言葉でした。「共に Coram」というラテン語は、「cum 共に」と「or 口」を組合わせた言葉です。呪いは、神の言葉を厄介払いし、ウンコを外に押し出す様に吐き出す、憎しみに満ちた状態です

 

 

 

 

 

 今日のところも、偽物は、どういう人かがハッキリ分かる所です。祈りは、エリクソンが言う通り、神の言葉を聴き入れることです。神の言葉を毎日聴き入れてれば、自ずから、神を畏れると同時に、人の話も謙虚に聴き入れることにもなりますね。

 ところが、いくら水の洗礼を受け、教会にも通い、しかも、ミッション系の会社に務めてても、それでクリスチャンとは限らないんですね。何度か取り上げた話題です。神を畏れないと、怯えた表情になるんですね。不思議でしょ。今日も怯えた表情で、国会近くの朝の散歩に出かける人が、フェイスブックに怯えた顔をアップしてました。神の言葉を厄介払いに、聴き取り拒否しに行ったんですね。呪いと憎しみに自分が満ちていることに、まだまだ、まだまだ、気付かないみたいです。誠に残念ですね。

 

 

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セラピストの2つの役割と、治療結果の素晴らしさ

2015-12-24 05:35:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人をモノ扱いするのはダメでしょ
   黄金律を活かすためには、相当程度に内省が必要になりますね。 p234冒頭から。    &nb...
 

 モラトリアムの時期は、親替えの時期です。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p101の、8行目途中から。

 

 

 

 

 

このことから青年期のクライアントのセラピストには、2つの立場が割り当てられていることが分かります。2つの立場とは、治療に当たって、上手に解釈することと、さらには、きめ細かく、相手の気持ちに合わせて肯定する、という親の様な役割、すなわち、は母親役をやることです。クライアントが「2度生まれ」になりますと、また、次第に友達が増えることに、必ずなりますし、他者を尊重し、その人の役割を認めることや、その人と互いにやり取りしあうことに思いを馳せることにも、必ずなります。

 

 

 

 

 

 エリクソンは、一流の学者であるばかりではなくて、一流のセラピストであることがハッキリと分かる所ですね。

 セラピストは、私のように男であっても、青年期までのクライアントの場合、母親役をやる場合が圧倒的に多いし、それが上手く出来た場合は、劇的にクライアントが変化する場合があります。

 劇的に変わったクライアントは、必ず友達が増えますし、やり取りする場面が必ず増えますよね。アメリカでも、日本でも、全く違いがありません。実に不思議ですよね。

 

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2015-12-24 04:39:19 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
日本人の大好きな同調主義は、こうして、生まれます
  ウソやゴマカシよりも、ウソとゴマカシのない暴力の方がまし、と言うのは悲劇ですね。 p92の第2パラグラフ。   ...
 

 

 ウテさんは、≪いまここ≫に踏み止まる窓を広げる手助けが必要でした。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.222の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 催眠は、1800年代の後半からトラウマ治療の臨床で最も広く用いられてきました。それは、ピエール・ジャネとジグムント・フロイトの時代でした。催眠は、トラウマ治療に第二次世界大戦までよく使われてきました。ユー・チューブで、偉大なハリウッド監督、ジョン・ヒューストンの手になるドキャメンタリ―「灯りを照らせ」をまだ見ることが出来ますね。それを見れば、「戦争神経症」の治療のために催眠をしてもらっているところが見られます。催眠は、1990年代初めに人気がなくなり、PTSDの治療に効果があるとする研究は、最近は1つもありません。しかしながら、催眠をすれば、比較的落ち着いた気持ちになれますから、そこから、クライアントは自分がトラウマを負わされることになった経験を、圧倒されることなく観察することが出来ます。静かに内省する力は、トラウマを負わされることになったいろんな記憶にまとまりを付ける時に、なくてはなりませんから、催眠は、何らかの形で、カムバックするんじゃないかしらね。

 

 

 

 

 

 催眠は、PTSD治療に限らず、日本でも傍流です。筑波で催眠研究していたある助教授は、広く良く文献を読んでいる人で、いろんな研究テーマの大学院生が質問しても、当を得た答えを答える人でしたが、自分の研究は、傍流だ、と嘆いていたことがありました。今は地方の国立大学に「飛ばされて」仕舞いましたが、もしかしたら、そんな傍流の研究をしていたからかもわかりませんね。

 ヴァン・デ・コーク教授は催眠研究カムバック、とおっしゃります。

 私は、〇〇助教授よカムバック、と申し上げます。

 

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