エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの祈り

2015-12-03 07:14:43 | アイデンティティの根源

 

 

 
科学技術と指導者
   「人間皆兄弟」、1つの人類という最も単純で最も包括的な物差しを教えを教えてくれる指導者に従う時に、道徳と価値と倫理が一つになる、という点だけは、ハ...
 

 ルターは、絶望のどん底で、キリストに対する信頼もなくしていました。でも、なんで?

 Young Man Luther 『青年ルター』p.243の、最後の行の途中から。

 

 

 

 

 

このような急性の発作がなくなった時でさえ、ルターは、消化不良、便秘、痔に悩んでいました。また、ルターは、腎結石のために、死ぬほどの痛みを味わいました。耳がブンブン鳴るのも悩みの種でした。ルターはそれを、ドイツ語で「耳鳴り」とか、「囁き」と呼んでました。このブンブンなる耳鳴りは、もともとは中年の病気から来たものでしたが、ルターが身体の痛みと心の痛みの間を繋ぐものとなり、心の底から聞こえてくる声が放つ一本の矢になりましたね。

 

 

 

 

 

 生老病死、と言ったら仏教では四つの苦しみ、四苦(しく)になります。ルターも社会的成功の陰で、様々な病気に苦しみ、キリストへの信頼さえ失くしていました。人間ですから、仕方がなかったのかもしれません。

 でも、エリクソンの語り口はそうではありませんよね。特に、耳鳴り。それは、身体の痛みと心の痛みを繋ぐもの、心の声に気付くためになくてはならないものだといいます。

 これは実に真実なことで、心が、魂が、大きく成長する時、それは生老病死を通して、心の声が語られる場合が非常に多い。その声を聴くことこそが、本物の祈りであり、その祈りを祈るものだけが、真の意味でのキリスト者なんですね。

 ヘボなクリスチャンでも、理解できます。

 

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命を忘れがちな技術偏重の見方

2015-12-03 07:00:36 | エリクソンの発達臨床心理

 
日本の公教育の病理 その2 ヤクザナ教員に、パレーシア
  日本の公教育の病理は、「言ってること」と「やってること」のかい離にこそある。そういう組織は、ウソとゴマカシの組織になりがちなことは、火を見るより明らかですよね...
 

 エロスは、本来、神羅万象すべてを大事にするもので、精神分析は、そのエロスの働きを前提とするものらしい。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p96の、4行目途中から。

 

 

 

 

 

しかしながら、この普遍的な技術というイメージがもらたす世界、メディアが作り出しがちな世界は、厳密に、論理と科学技術の原理に従って計画された、全部ねつ造された秩序になりがちです。それは、私どもが今この本で強調していることを忘れる危険性のあるヴィジョンです。すなわち、心と心が響き合わない、反発を覚える傾向で、命をもって、この世に生きていることや 人と分かち合う秩序を忘れがちです。魂の生活の生態は、実は、この命を持って、この世に生かされていることと、人と秩序を分かち合うことに頼っているのですがね。

 

 

 

 

 科学技術は素晴らしいものです。しかし、それを過信すると、科学技術がもたらしてきた公害や人間が機械扱いにされる面を忘れがちになりますでしょ。とくに、人間の魂の生活は、命を戴いてこの世を生きていること、秩序は人と人と分かち合う中で生きているということを忘れがちになるんです。これは非常に危険なことです。

 先日このブログでも記しましたように、クリニカル・サイコロジストの仕事でも、心理検査やソーシャル・スキル・トレーニングなどの技術に偏り過ぎると、セラピストとして欠くことが出来ないエッセンシャルな態度を失ってしまう、という、本末転倒になりがちです。

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ジェームズ・ヒルマンに学ぶ、2人が大事にし合う元型  「遊びのおばさんになりたい」

2015-12-03 02:46:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
兄弟の様に人を大事にすることは、フロイトの場合、病気になっちゃうのはなぜかは?
  フロイトの精神分析理論も、「性的に(生殖で)人を大事にすることは、人が最大の満足を得ることになるし、その結果として、実際にその人にとってあらゆる幸せの元型とな...
 

 

 知恵に満ちたジェームズ・ヒルマン。

 今晩も、ジェームズ・ヒルマンの言葉をご一緒に味わいたいと思います。

 ジェームズ・ヒルマンのInsearch : Psycholgy & Religion 『内観 心理学と宗教』p.35、第2パラグラフ、下から10行目。

 

 

 

 

2人の人が、お互いに、魂のいろんな苦しみに関わることを約束すると、すぐに、自分と人を大事にする元型的な力が、その苦しみが癒されるまで遊び出します

 

 

 

 

 

 

 何でここを訳そうかと思ったかと言いますとね、ある小学2年生の女の子が、昼休みに遊んでいる時に、「ねえねえ、遊びのオジサン、私も『遊びのおばさん』になりたいんだけれども、どうやったら、『遊びのおばさん』になれるか教えて」と言われたからなんですね。それは、どう応えていいのか、すぐには分からないことでしたけれども、〈それじゃぁ、この次に来た時に、遊びの本を一冊持ってくるね〉と瞬間に応えていました。臨床心理士になるコースを伝えたのでは、全く見当違いなことだけはハッキリ分かる。じゃぁ、何を伝えたらいいのかなぁ?

 それで、このジェームズ・ヒルマンの言葉なんですね。その子も、この元型の力が、その子と私の間に働いていることを感じたから、「遊びのおばさんになりたい」と言ったに違いないからです。あの元型の力が働いた時にだけ感じる、圧倒的で、しかも、静かな、悦びに満ちた温もりを感じたからに違いありませんから。

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