エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人生は積み木、土台がいつでも大事

2015-12-01 07:54:34 | アイデンティティの根源

 

 

 
人を大事にすること
  技術そのものを目的化してはいけないのですね。 p82第2パラグラフ。    人を大事にすることが、性的な満足...
 

 「いろいろあったけど、善い人生だったなぁ」と感じて、死んで生きたいものですね

 Young Man Luther 『青年ルター』p.243の、第3パラグラフの、下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

 

こういった、いくつかの、あれかこれかは、人生の舞台で深刻な条件になる訳では必ずしもありません。前にあるいつくかの舞台も、恵みにもなれば、呪いにもなります。なぜなら、人生は、最初から最後まで、全ての舞台が積み木になっていることによって、特色付けられているからです。ルターの父親との関係を見ると、最も深刻な臨床上の絶望が生じたのは、ルターが父親の望み通りになりかけていた、まさにその時だったことが分かります。すなわち、ルターが、社会に影響力を持つようになり、経済的に安定し、法律に縛られない存在とになり、ハンスと言う名の子どもの父親になった、まさにその時でした。

 

 

 

 

 ルターは、社会的に成功したときが、まさに絶望の絶頂だった、というのは、心の不思議そのものですね。でも、これは割合にあることなんですね。

 私もその昔、筑波大の茗荷谷キャンパスで学んでいる時に、一部上場の大会社に勤めている男性で、その父親も一部上場企業の副社長で、幼いころから外国暮らしが長く、英語、ポルトガル語が自由に使えると言う、30才くらいの男性の面接に、何度か陪席したことがあります。人が普通羨む様なお立場、環境でしょ。でもね、その男性は、パニック障害のために、日々を苦しんで暮らしてたんですね。

 人生は、はた目から見たのでは、全く理解不能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終末的ニッポン: 「人間を上下2つに分けるウソ」を克服している人こそが、大人!

2015-12-01 07:10:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
小さいことを大事に
  「小さいこと」、これに対する態度で、だいたい人となりが分かります。 私が好きな人は、「小さいこと」を大事にする人。「小さいこと」に中には、いろんなものが入...
 

 大人が責任ある態度がとれるのは、人は感情転移や投影と言う、赤ちゃんの頃の体験と激しい感情に囚われがちだということをハッキリ認識して初めてできる、という指摘は、きわめて実践的、かつ、重大な指摘です。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p95の、第1パラグラフの、下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

私どもの言葉で申し上げれば、こういうことは、大人であれば、「ウソの」(あるいは、「準ずる」)「人を上下2つに分けるウソ」を克服しているはずだ、ということでしょう。これは、空想の上で人間を2つに分けて、他者に対する憎悪を、非常に道徳的に合理化して、他者に投影することです。このように「人間を上下2つに分けること」は、超自我がもたらす、最も残忍で、最も反動的なことです。そこでは、最も心の狭い、小さな組織を優先する意識、カーストのように社会階層にものづく仲間はずれ、さらには、民族主義的、人種差別的に他者を蔑んで自分を確かにさせようとする態度が生じますから、こういった心の態度はすべて、核の時代にある我々人類すべてを危うくするものだ、と認識すべきでしょう。

 

 

 

 

 

 ここは極めて大事なところでしょ。狭い組織・狭い集団を優先する態度がいかに人類全体に対する犯罪的態度が分かりますからね。

 その点、我がニッポン、「眼先の自分の利益のためには、市民やお客を騙しても仕方がない」という、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちから、東電・東芝・三井不動産レジデンシャル・東洋ゴム…(キリがありません)の狭い組織を最優先する態度のオンパレードは、極めて終末的です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最良の薬

2015-12-01 02:01:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人を大事にすること
  技術そのものを目的化してはいけないのですね。 p82第2パラグラフ。    人を大事にすることが、性的な満足...
 

 私ども、クリニカル・サイコロジストには、カウンセリングやセラピーの基本として、カール・ロジャースの基本的態度があります。3つの態度です。1)「無条件の肯定的配慮」、2)「共感的理解」、3)「純粋」、ないしは、「自己一致」です。どれも難しそうですね。これはあくまで理想形で、それが完全にできている人はいません。しかし、その理想形を実現できるわけではないけれども、だからと言って、それを「どうせできないんだから」と諦めてしまうのではなくて、それに向かってひたすら近づこうとする謙虚な態度ですね。

 1番目の「無条件の肯定的配慮」とは、相手を「〇〇が出来たら、OKです」という条件を付けずに認めていくことです。ですから、「ありのままの相手を『OKです』と認めること」がこれに当たります。

 2番目の「共感的理解」とは、「客観的理解」と対照的です。相手を突き放して理解しようとするのではなくて、繋がりを見つけながら理解したいという態度です。「何とか繋がりはないかな?」、「理解したいなぁ」とこちらが思って関わったら、相手にもそれが分かる場合が多い。それが≪繋がり≫に結びつくんじゃぁないかしらね。

 3つ目の「純粋」ないしは「自己一致」。3つの中でこれが一番大事になります。これがないと、後の2つは不可能だからです。「純粋」ないしは「自己一致」、セラピストが自分の気持ちに誠実であることです。エリクソンの言葉で言えば、「≪私≫という感じ」、「自分の感じ」に正直であることです。これは、セラピー場面だけでできると思ったら大間違いで、日常生活の中で、根源的信頼感、自分の感じを法則としていい感じ(オートノミー自律の感じ)、自分の感じに従って行動を始めてもいい感じ(イニシアティブの感じ)…と積み重ねていくことが大事になります。そのいる中で、相手の人の「自分の感じ」にも、共感できますし、肯定的配慮もできる、ということです。

 セラピーやカウンセリングでは、いろんな技法、セラピー、検査、道具を使います。すると、ややもすると、そういう検査・道具、技術が上手くなることが、良いセラピー、良いカウンセリングだ、と言う誤解が生じやすい。でも、その時に、ロジャースご推薦の態度はどうなるんでしょうか? そんな態度はなくても、検査や技術が上手ければいいのでしょうか? 

 これは本末転倒なんですね。検査や道具の扱いがたとえ下手糞でも、この態度が良ければ、検査などが上手なだけの人よりも、遥かに良いセラピーやカウンセリングが出来るんです。論より証拠です。検査や道具の学びが不必要だ、と申し上げてる訳じゃないですからね。でも、それは中心的課題ではなくて、第2の課題に過ぎないことを忘れてはならない、ということです。

 ロジャースの例の3つの態度は、実は、人格のことなんですね。でも「人格」などと言われても、格調高いとは思っても、具体的なイメージが持ちにくい。ロジャースは、人格を具体的にイメージで言いあわらしたのが、この3つの態度なんです。

 心を病んだ人にとって、最良の薬は、人格です。人格を具体的に示すことが出来る人との関係です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遊びの不思議

2015-12-01 00:00:52 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
若者の「本物」の倫理と現実
  道徳性には、ウソがつきもの。そのウソには、また、イジメがつきもの。 p226の第三パラグラフ。   &nbs...
 

 発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもが、一番飢えているのが、心と心が響き合う、温もりのある関係と、その関係をプレゼントするセラピー PCITです。でも、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どものお母さんも、同様の発達トラウマを抱えている方が普通です。ですから、意識的にやり取りをする関係を、毎日の生活に取り入れることが是非とも必要になる訳です。それができれば、子どもだけでなく、お母さんも、母親としての自信を快復することが出来ます。 

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.217の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私どもは一緒に遊ぶ時に、身体と身体が響き合い、絆と悦びを体感します。即興でやること(http://learnimprov.com 参照あれ)も、一緒に悦び、一緒に探索をする上で、とっても役立ちます。しかめっ面した人達も、くすくす笑い出すとき、≪生きづらさ≫と言う呪文も解けます。

 

 

 

 

 

 遊びは実に不思議です。楽しく遊びながら、しかめっ面や怒りんぼはできないでしょ。楽しく遊んだら、子どもでなくても、ニコリと笑います。一緒に遊んだら、悦びと笑顔も共にできます。食事を共にすることと同じくらいに、遊びを共にすることは、相手の価値を認めることにもなりますし、絆を確かめることにもなんですね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする