エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ジャーナリズムの精神

2015-12-23 09:34:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
黄金律を支える 内省的な関わり
  ≪やり取り≫。この極単純なことが、実に奥深い。天にもいたり、地をも掬い上げます。 p233最後のパラグラフ。   ...
 

 ジャーナリズムの精神、スピリットは、市民の知る権利を保証することです。これは、ジャーナリズムの精神、スピリットであるばかりか、ジャーナリズムの初歩、いろはです。

 この前提が、最近では、大きく崩れているのが、日本のジャーナリズムの悲しき現状です。テレビでは、TBSがひとり気を吐いている感じです。報道特集の金平さん、ニュース23の岸井さん。フェイスブックでは、野中ともよさんくらい。あとはジャーナリストではないのかもしれませんが、村上さとこさん、阿部憲一さんが、いつも大事な情報を、フェイスブックにアップしてくれています。

 そんな中で、元最高裁判事で、今現在は明治の法科大学院で教鞭をとっておられる瀬木日呂志さんが、ジャーナリストたちに、檄を飛ばしているのが印象に残ります。今のニッポン、自分が得するためには、手段を選びませんから、司法にしても、ジャーナリズムにしても、本来なら権力を批判する立場の人達も、おしなべて節操がありません。瀬木さんは『ニッポンの裁判』等を表わして、いかに司法が、市民の人権に反する組織かを、赤裸々に明らかにしてくれています。その中で、司法報道にも触れていて、ジャーナリズムの檄を飛ばしておられます(p.201)。傾聴に値する言葉だと感じましたので、シェアしますね。

「メディア、ことにマスメディアの記者の方々にも、衷心からご忠告申し上げたい。権力を疑い、批判する心を、市民の代理人としてその「知る権利」に奉仕し、「報道責任」を果たす本来の役割を、そして、ジャーナリズム、ジャーナリストの本来のあるべき気概を、あまりにも忘れてしまっていないかと。」

 

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神の冒涜の、も一つ バカ丸出し

2015-12-23 08:50:10 | アイデンティティの根源

 

 

 

 
竹内まりや 感謝と謙遜とハーモニーの千秋楽
  昨日、日本武道館で、竹内まりやさんのコンサート「souvenir 2014 mariya takeuchi live」が千秋楽でした。33年ぶりの全国ツアー、...
 

 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。神様を日々冒涜している人は、内省や聴く耳がないだけじゃぁない。恥も、ない!恥知らず。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.247の、第3パラグラフ、5行目途中より。

 

 

 

 

 

こういった圧迫されたときの、後退する面と、その結果生じる強迫的で、こだわりが強い感じが、それぞれ、ローマ教皇と、悪魔に集中することになります。しかも、1人の親(訳注:父親)から、皆が知っているお偉いさんに、感情転移が起きちゃってる、ってことにも思い至らないばかりか、この感情転移が起きちゃうときの中心的なテーマが、人の言うことを強情に無視する挑戦的な態度である、ってことにも、気付きません

 

 

 

 

 

 偽物は、このように、いろんなことに気が付かない、お幸せな人なんですね。別のことばで申し上げれば、バカ丸出しです。

 本当に賢い人が、バカになるのは感動しますけれども、バカがバカをやっても、バカ丸出し、ということに、そろそろ、気付いてもらいたいものです

 

 

 

 

 

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最高の勲章

2015-12-23 07:52:31 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 
嵐を呼ぶ女:ウソやゴマカシより暴力の方がまし
  一見引っ込み思案な女の子。それは「分かってもらったり」、「優しくしてもらったり」した経験があまりも乏しいから。本当に理解してもらったり、真に優しくしてもらった...
 

 

 モラトリアムの時期は、上へ下への大騒ぎになることが普通です。傍目からは、何にもしていない場合でも、心の中では、上へ下への大騒ぎであることも少なくありません。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p100の、下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

計画的に遅れが出ることに、進歩的な論理があるのは、青年期は、人々の間で自分を確かにさせることが出来る時期だという事実において、明らかになります。それは、その大枠が「堅信礼」ばかりではなくて、初めての友情や、初めての恋愛、初めての協力関係、初めて共通の価値を基にする仲間関係など、あらゆる秩序に、次第にのめりこむことに、人々の間で自分を確かにさせることが、出てきます。ピーター・ブロスが強調してやまないのは、発達の視点から退行する点ばかりではなくて、「2度目の誕生」です。第2の誕生に見合う感情転移について、青年期のクライアントが、いかに「『能動的に』、親を選び直そうとし続けるか、そうして、青年期のクライアントは、分析家を、実感のある親みたいな人と見立てることを通して、古い脚本を、全く新しい脚本に作り直すのか」を、ブロスは説いています。

 

 

 

 

 

 臨床家が、心で、ブロスが、そして、エリクソンが言っているように、親替えに立ち会うことほど、感動的なことはありませんね。そうすると、さえない表情であった子どもも、物憂げであった子どもも、不満タラタラだった子どもも、実にイキイキ、ピチピチとした笑顔を見せますからね。このイキイキ、ピチピチの笑顔こそ、サイコセラピストの最高の勲章と言えるでしょう。

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