エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

晒し者にされた発達トラウマ障害(DTD)の人たち

2016-10-12 08:39:14 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
エリクソンの預言 : 人様のために生きるのか? ウソとゴマカシで結局、自己中で生きるのか? の分かれ道
   The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p.81の第2パラグラフ、9行目途中から。     このような......
 

 発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog 「犬として育てられた少年」。p161、4行目から。

 

 

 

 

 

直ぐに、道徳請負人たちが、子ども虐待の問題を商売にしますもんね。悪魔教団虐待事件として知られるようになった子ども達は誰なのか?というワークショップを売り出しました。フェミニストの旗印の雑誌「ミズ」とは違って、クリスチャンの正義同盟は、その一面に、 1993年一月号に、このような虐待を受けた「生き残り」を一人の本人の話を載せたんです。その表紙には、「必見、子ども虐待儀式の犠牲者現る」と銘打って、中では、1人の女性の話を載せたんですね。その女性は、両親から十字架をいくつも付けて、何度もレイプされただけじゃなくて、首をちょん切られた赤ちゃんの妹の肉を食べるように強要されたんですね。

 

 

 

 

 

 

 悪魔教団の虐待事件は、雑誌が取り上げる位世間が騒いで、商売にする者もいたらしい。落ち着いて、虐待された人たちの支援をしにくい状況にあったみたいですね。こんな形で、虐待された人たちを晒しものにするようにことをしていたら、支援とは逆効果になることも、当時はあまり認識されていなかったのかもしれませんね。

 

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平凡に見える人が、実は「魂の殺人者」 

2016-10-12 08:02:47 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 
「生きてていいんだよ」という励まし
        天空からの恵み 励まし…              修道院に入るのは、逃げ道だったみたい。父親から逃げたかったしね。 Young Man Lut......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.136、第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自分が何者かを知るためには、すなわち、自分が確かにされるためには、何が「手応え」があるのか、あったのか、を知らなくてはなりません(少なくとも、知っていると感じられなくてはなりません)。また、自分の物差しを信頼し、自分の物差しを、自分の空想と区別できなくてはなりません。このような区別ができなくなることは、精神分析家のウィリアム・ナイダーは、「魂の殺人者」と呼んだことの印です。なるべく自覚的に物事をすることを止めて、「気にしない気にしない」と物事を自動運転でやり過ごすことは、生きる為には不可欠である場合も多いのですが、そんなことをしていれば、その代価として、自分が何者なのか? 自分が感じていることは何なのか? 自分が信頼していることは何なのか? 自分が信頼している人は誰なのか? という問いを忘れてしまいます

 

 

 

 

 

 かくして、問いを忘れた人間は、ルーティング・ワークの、退屈だけれども、喰ってはいける毎日になります。でも、その人は、ヴァン・デ・コーク教授によれば、あるいは、精神分析家のウィリアム・ナイダーによれば、「魂の殺人者」である、といいますね。ごくごく普通に見える、平凡な人が、実は「魂の殺人者」という訳ですね。深い洞察でしょ。

 この手の人は、「≪本当の自分≫が死んでいる」という意味で、「自分の魂の殺人者」であると同時に、人が≪本当の自分≫を生きることを台無しにするという意味でも、「人の魂の殺人者」なんですよ。

 

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インターメッツォ: 一見人当たりがよく、我慢強そうな人が、実は最悪の意地悪な訳

2016-10-12 03:02:39 | 間奏曲

 

 

 
エリクソンの預言 : 人様のために生きるのか? ウソとゴマカシで結局、自己中で生きるのか? の分かれ道
   The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p.81の第2パラグラフ、9行目途中から。     このような......
 


  Chilhood and Socirty から。p.58から。

 

 

 

 

 

 「下(しも)」に神経質な大人は、たとえば、自分の排泄について、いつでも過剰に心配しますよね。しかも、それは表向きは、衛生面の細かいところまで目を配った感じがしたり、キチンとすること、清潔にすること、時間通りにすることに拘る感じがします。…そういう人は、いつまでもガマンしたり、待ったりすることや、不意に表に出ることを嫌いますね。…そのような、≪ガマンと出す≫やり方に折り合いがついていない人は、概して、気持ちを過剰に出さなくなり、その気持ちを過剰に出さないことが性格全般にハッキリと表れます。そういう人は、遊び・ゆとりをもってやる、ということができなくなりますね。…精神分析によって、解って来たことは、意識してやっているか否かはともかく、このタイプの人は、厄介な空想を楽しんでいるフシがあり、身近にいて、押し付けがましい特定に人に対してすべてをぶちまけてしまいたいと思う暴力的な敵意も楽しんでいる感じがある、ということですね。言葉を変えれば、そのタイプの人は、大切な人たちに対して愛憎相半ばしていて、しかも、ガマンしすぎる元凶になっている善悪の基準があいまいになっていることが多いことが、同時に、他人を恣意的に独裁者の如く支配しようとすることに繋がっていることに、気付かずにいることが多いものですね。

 

 

 

 

 かくして、このタイプの人は、家庭や職場で、子どもや同僚に対して、「私だってこんなにガマンしてんだから」と意識しているか否かはともかく、「ガマン」を恣意的に、独裁者の如く、押し付けることになります。

 一見、人当たりの良いことを言ったりやったりすることもありますが、それはあくまで、見せかけで、深い憎しみを、陰で、あるいは、表で暗に、幸せそうな人にぶつけるのが常ですね

 

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インターメッツォ: ジッとして動かず、静かにする時に、初めて分かることがある

2016-10-12 01:39:50 | 間奏曲

 

 

 
10段組み体操とディズニーランドから見えてくる、私どもの日常 改訂版
  ヒュポメノー  ヒュポメノー。初めての人もあるかもしれませんが、これはもともとギリシャ語です。υπομεν&...>続きを読む  加......
 

 今宵も、ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction を味わいます。p.82。

 待つことを忘れて、即席、短期、結果がすぐに出ることばかりが、持てはやされる時代に、大事な指摘です

 

 

 

 

 

 皆さんに、黙想のお祈り瞑想をする練習をしていただきたいんですね。それは、「ジッとして動かないで、知る」方法で、心の中では、神様があなたを探しているものなんです。…エリアが神の声を耳にしたのは、囁きの中、静かで、小さくて、優しい声の中でしたね(「列王記 上」 19:9-13)。

 

 

 

 

 

 何かを知るのは、活動している時だ、と暗黙裡に、皆が信じているんですね。待っている時、じっとして動かずにいる時、目を閉じている時には、知ることなどできない。そんな勘違いが、まかり通ってしまっていますね。

 でも、本当にそうでしょうか?

 

 ジッとして動かず、静かにしている時にしか解らないことがあります。

 ジッとして動かず、静かにしている時に解ることが、とっても大事です

 

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