エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悪魔な「悪魔調査官」たち、悪魔な「震災ハケンの専門家」たち

2016-10-16 06:43:27 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
虎穴に入らずんば、虎児を得ず
   アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの狂気を打開するために必要なのは、チッヤャナ言葉だけ。 Young Man Luther 『青年ルター』p.233の第4パラ......
 

 発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog 「犬として育てられた少年」。p161、最後のところから。

 

 

 

 

 

「悪魔調査官」達は、虐待したかもはっきりしない大人の患者さんらに、「あなた達は虐待があったと思うなら、あったんですよ」などと話していたんです。また、摂食障害や依存症があるだけで、虐待の記憶もないのに、虐待があったはずだ、とも話したんですね。虐待があったか否かを計るチェックリストは、これっぽちの証拠にも基づかないものでした。ところが、このチェックリスト、セラピスト、ソーシャル・ワーカー、児童福祉局の職員向けに行った何百ものワークショップで、診断ツールだと紹介されたんです。

 

 

 

 

 悪魔調査官」達は、ウソを平気でいう人たちでしたね。これっぽちの証拠もないことを、診断ツールだというくらいですからね。

 でも、「震災ハケンの専門家」たちも、ウソを平気でいう人たちですよ。これっぽちの証拠もないのに、心理教育が発達トラウマ障害(DTD)の子どもばかりの被災地の子ども達に「有効だ」と言ってるんですからね。

 

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発達トラウマ障害(DTD)の子どもにも、聞く耳のある大人が一人、必要

2016-10-16 05:59:42 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
東洋ゴムよ、またか! 三井不動産、おまえもか!
  日本に、これだけ狂気の沙汰が、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちによってもたらされるのは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちだけが狂気じゃぁないからです。またまた、東洋......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.137、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 トラウマは、順序正しく、起承転結のある物語となって、記憶されている訳ではありません。11章、12章で詳しくお話するつもりですが、マリリンの場合のように、記憶ははじめは、フラッシュバックになって、蘇ってくるものです。そのフラッシュバックは、バラバラな経験、バラバラないろんなイメージ、バラバラないろんな音、バラバラないろんな体感には、脈絡がありませんから、残るのは、恐怖やパニックだけになります。マリリンが子どもだったころ、言葉にできないことに声を上げる術がありませんでした。言葉を換えても、違いがないことですが、聞く耳のあるものが一人もいなかった、ということです。

 

 

 

 

  発達トラウマ障害(DTD)の体験は、バラバラですから、恐怖とパニックの感情に囚われるだけになってしまいます。それは、周囲に、話しを聴いてくれて、理解してくれる人が一人もいないために、ますますバラバラな体験を繰返すことになり、一層恐怖とパニックに囚われることになります。

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、ナウェンさんの言葉を使えば、受け止めてくれる相手がいませんから(聴く耳のある大人がいませんから)、いつもで経っても、自分を生きることができません。

 学校そのものが、「聴く耳」になることが、無着成恭さんや金森俊朗さんのクラスみたいに、「この先生といる幸せ」を実現するための必須条件になります。

 

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インターメッツォ: ナウェンさんのピスティス

2016-10-16 04:54:31 | 間奏曲

 

 

 
癒しの匂い  あばら家暮らしのエリクソン
  男も中年になれば、臭いのことを気にする方も多いのかもしれませんね。「加齢臭」などと言う、昔はなかった言葉も盛んに言われたりしますしね。でも、あんまり気にしすぎるのもどう......
 

 ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction を味わいます。p.152。昨日の続き。

 

 

 

 

空中ブランコをしているその体は美しく上品で、自分も人も大事にする気持ち、友情、やり取りする間柄、という魂を表現しています。そして、自分も人も大事にする気持ち、友情、やり取りする間柄、という、この魂は、いまここにあって、身体から離れることはありませんもんね。私も、自分を受け止めてくれる相手を信頼して生きたいと思います

 

 

 

 

 

 素晴らしい!! ですね。

 何メートルという高さのブランコの間を、飛び移る空中ブランコ。自分が1つの空中ブランコを手放す時、飛び移る相手が、自分を確実に受け止めてくれると信頼すればこそ、オッカナイ気持ちを吹っ切って、ブランコを手放すことができますでしょ。

 そのように、私どもも生きてまいりましょう

 

 

 

 

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宇多田ヒカルさんの、約束と真実

2016-10-16 04:26:52 | 間奏曲

 

 
愛着障害のいろんな治療法
   矢内原忠雄の「子供について」  矢内原忠雄先生の晩年の小論の「子供について」があります。私が西村秀夫先生の「聖書を学ぶ会」に参加を許されて間もなく......
 

 今宵も、宇多田ヒカルさん。今宵は「花束を君に」。

 http://www.utadahikaru.jp/lyric/もご参照くださいね。

 この歌は、「母親讃歌」なのでしょうけれども、それをそのままいったのでは、「エリクソンの心理学をベースに…」と謳うこのブログでは、物足りませんでしょ。

 「花束を君に」の歌詞を上のURLでご確認していただければ、お分かりのことと思いますが、

 愛しい「お母さん」に、「花束を贈ろう」と謳う歌は、母親に対する感謝が前面に出ています。それは、「楽しいことばかり」ではなく、「苦労や淋しみ」を数知れず味わいながら、自分を育ててくれたからでしょうね。

 でも、それだけじゃ、ありませんよね。

 それは冒頭に出てきますね。「忘れえぬ約束」…。これは、このブログの熱心な読者ならば、すでにご存知でしょうけれども、初めての方もおられるでしょうから、一応お話しますね。漠然と「こころ」と言いますけれども、ヨーロッパの昔には、「こころ」と言えば、「良心」だったんです。「意識」と言う言葉は、近代の産物です。しかも、「無意識」が「発見」されて、余計意識されるようになったものです。さて、その「良心」、「意識」ですが、これは英語では、それぞれ、conscience カンシャンス, consciousness カンシャスネス ですね。これは、ギリシア語まで遡りますとね、συνείδησις シュネーデシス、となります。これは、συν 共に+ εδον(όρの第2アオリスト)見る、という意味です。英語の方も「共に見る」、「共に見通す」という意味です。「共に見通す」ということは、言葉を変えれば、「約束する」ということでしょ。ですから、こころ、良心は、「約束」を前提にしていることが、言葉の上からも解かりますね。

 ちょっと、くどかったですかね。

 宇多田ヒカルさんの「花束を君に」も、その「約束」が「「忘れえぬ約束」として出てきますでしょ。この約束は、大切に守ってくれたればこそ、「忘れえぬ約束」なのですね。そして、繰り返し「約束」を大切にしてくれる人の心こそ、「真実」であり、その「約束」を介した、宇多田ヒカルさんとお母さんの関係も「真実」になる訳です。

 そして、この「真実」はギリシア語では、πίστις ピスティスです。そして、この

πίστις ビスティスは、同時に、「信頼」という意味もあります。

 つまり、

「約束」にピスティス「真実」であると、母子関係もピスティス「真実」になりますから、その赤ちゃんにもピスティス「信頼」が芽生える

 ということですよ。

 宇多田ヒカルさんの「花束を君に」も、このピスティスを歌っている、と考えて、間違いない、と私は強く感じます。

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