またひとつ、ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction p.80から。
1人孤独な、こころの静けさの中で、魂のどん底で、なんかよく解んない,という霧の中で、私どもは、思いがけず、聖書の神様に出逢うものです。
本を読んだり、書斎でアレコレ思索をしたりしたのではありませんね。
生活の中で体験した、聖書の神様との深い交わりの中から表現されたものだ、と考えて間違いありません。
またひとつ、ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction p.80から。
1人孤独な、こころの静けさの中で、魂のどん底で、なんかよく解んない,という霧の中で、私どもは、思いがけず、聖書の神様に出逢うものです。
本を読んだり、書斎でアレコレ思索をしたりしたのではありませんね。
生活の中で体験した、聖書の神様との深い交わりの中から表現されたものだ、と考えて間違いありません。
発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog 「犬として育てられた少年」。p159の第2パラグラフ、7行目途中から。教育がなく、貧乏な家庭の事件でしたね。
当時、ベット・ヴァーノンが警察に報告したことは、ベットの当時のご主人、ワード・ヴァーノンが、4歳と6歳の2人の娘に性的虐待した、ということでした。両親は2人とも、子ども虐待のかどで告訴されて、4人の子ども達はアメリカ式養父母に預けられました。虐待という調査報告の結果、ワード・ヴァーノンは、子ども性的虐待で、有罪になりました。信じられないことですが、判決は執行猶予付でした。
バカな犯行に、バカな判決。アメリカの刑務所も、厳罰主義のために、過剰収容ですから、性的虐待では収監されずらいのかもしれません。性犯罪者にこそ、シッカリした、再教育と職業訓練が本来必要ですが、そこには予算を出していないのは、日本も同じです。
心からの真実に聖書に、「あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えなさい」という言葉がありますけど、その意味が自ずから分かりますね。一生を賭けても惜しくない、と感じるものを見つけて......
発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.135のブランク後の、第2パラグラフから。
たとえ、あからさまに脅かされたのでなくても、自分が打たれたことや性的虐待されたことを教員に話しても、子ども等は罰を受けるのは自分だ、感じているんです。そうではなくて、子ども等が精力を集中しているのは、自分に起きたことを考えないようにすることと、自分の身体が感じている恐怖とパニックの余韻を感じないようにすることなんです。自分が体験したことを知るのは耐えられないので、自分が何で怒っているのか、何で怖いのか、を理解できませんし、その怒りや怖れを感じる体験に対処することも全くできません。子ども等は話しませんもん。子ども等が気持ちを行動化して、応じているんです。怒ったり、ムスッとしたり、ブツブツ文句を言ったり、反抗的になったり…。
ですから、表面に現れて、日常生活で困るのは、イライラしたり、自分の気持ちが言えずにムスッとしていたり、不平が多かったり、反抗的になったりして、友達との関係がうまくいかない、先生と折り合いが悪い、なんていうことが多い。
その時、その友人関係そのものを改善しようとしても、ソーシャル・スキル・トレーニングをしても、ほとんど効果はありません。意識しないようにしてきた、トラウマの体験を表現できるように、主に投影法で、私は整えることに心砕いています。
今朝も、Chilhood and Socirty から。
私どもの臨床上の課題と、私どもの歪みとは、別物です。私どもがひとりびとりの人間としての危機を研究するのは、セラピーをしながらのことです。私どもがセラピーをしながら、ひとりびとりの人間としての危機を研究する時、身体、自我、対人関係の3つのプロセスは、1つの過程、すなわち、人生の3つの側面であることが解かりましたし、どれも大事だ、と解かりました。
サイコセラピーをしていますと、この3つの視点が大事です。友人関係の問題も、身体に現れている問題も、こころの課題、自我の課題を反映していることがほとんどだからです。この3つの視点を明確に持っていることがサイコセラピストとしては、基本的な態度だと言えます。