エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

心理学クラシック : 自己は怖い  事故、ではない

2016-11-30 03:34:25 | 間奏曲

 

 

 
人生は、「もうダメだ」と思った時から、始まるもの
   最大の子育て支援策  やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いずれも、子育て支援として大事です。しかし、......
 

 

 英語を日本語にする心理学だけではね、という感じがしたので、たまには、河合隼雄先生の言葉を。ワークショップで数回質問したことがある程度の関わりですが、この人の本を読んでると、不思議に安心感があります。でも、今日は「怖い」お話。怪談ではありません。

 『無意識の構造』p.151から。

 

 

 

 

 

 個人の自我のほうから見るとまったくばかげていたり、避けたいことであったりすることも、自己のほうから見るときは、ひとつの巧妙なアレンジメントであると見えることは多い。われわれ心理療法家は、その両方の見方ができる人として、そこに存在している。そして、もっと面白いことに、ただ横に坐っているだけと思っていた、われわれ治療者自身も、そのアレンジメントの中にうまく組み込まれてしまって、右往左往させられていることに気づくことすら多いのである。自己というものは恐ろしいものである。

 

 

 

 

 恐ろしいって、実は面白い

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子育てに必要な 確信

2016-11-30 03:09:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「1つの人類」よりもまず、「ひとりびとりの結びつき」を!
   まだまだ危うい青年期  青年期になると、理想の良しあし、位置づけが分かってきます。日本人は、自分が得をしないかぎり、なかなか理想を求めないのが常。......
 

 Chilhood and Society p.249から。再掲します。それほど大事。

  

 

 

 

 親はまた(訳注:赤ちゃんを前にしたら)、自分が今していることには大事な意味がある、という、深い、殆どはらわたで感じる程の確信を持っていなくっちゃね

 

 

 

 

 

 

 エリクソンが言う確信が欲しいですね。

 

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DSM幹部の裏切りと、ヴァン・デ・コーク教授の誠実

2016-11-30 02:32:10 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
日本の裁判所という ウソとゴマカシ
   最大の子育て支援策  やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いずれも、子育て支援として大事です。しかし、......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.145、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 DSMの中の主要な診断には、どれも、新しい版の改定を提案するために担当の作業グループが1つずつあります。私は、私が加わったDSM-ⅣのPTSDの作業グループに臨床研究の結果を報告してきましたし、私どもは19対2で、新しい診断名を対人間のトラウマに付けることに決めまていました。要するに、「極端なストレス障害、他に特定できない」、あるいは、「様々なトラウマに由るPTSD」のことです。私どもは、ですから、ワクワクした気持ちで、DSM-Ⅳが、1994年に出版されるのを待っていました。ところがですよ。私どもはビックリ仰天玉手箱でした。私どもの作業グループが圧倒的多数で評価した診断名が、最終版には載ってないのですから。私どもの作業グループは誰も、相談されてなかったんですしね。

 

 

 

 

 

 政治的な横やりが入ったのでしょうね。その横やりを入れた人も、ヴァン・デ・コーク教授が、今翻訳している本がベストセラーになっていることに、恥いっていることでしょう。生きていれば、ですが。

 ヴァン・デ・コーク教授も諦めないで20年かけても、この本を出したのは、誠に誠実ですね。

 

 

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「メタノイアの沈めの式」(バブティスマ・メタノイアス βαπτισμα μετανοιας)

2016-11-30 01:37:08 | 聖書の言葉から

 

 

 
日本の裁判所という ウソとゴマカシ
   最大の子育て支援策  やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いずれも、子育て支援として大事です。しかし、......
 

 

 無教会には、儀式、サクラメントは1つもありません。決まった礼拝堂・建物もありません。むかし、「洗礼」について、西村秀夫先生に訊いたことがあります。「クリスチャンになるためには、洗礼が必要ですか?」と。その時、西村先生は、クリスチャンとして生きる際には、「覚悟」が必要だ、という趣旨のお話がありましたね。その時はまだわからなかったんですが、それは「命がけの覚悟」が必要だ、ということだったと思います。詳しくは、また別の折に、ご紹介したいと思います。

 「洗礼」という、手洗いの様な儀式、サクラメントの本当の意味を、本田哲郎神父様が教えてくださいます。『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 キリスト者としての根幹、すなわち、キリスト者としての生活様式は、入信の儀式として行われる。「沈めの式」(バブティスマ βαπτισμα=洗礼式)において象徴的に示されています。聖書では、「メタノイアの沈めの式」(バブティスマ・メタノイアス βαπτισμα μετανοιαςと呼んでいるとおりです(マルコ1章4節、ルカ3章3節…参照)。これは、「洗い清め」の儀式ではなく「低みに身に沈める」儀式でした。メタノイアが「(人の痛みのわかるところに)視座を移す」という意味であることからもわかるように、「沈めの式」(洗礼式)を受けるということは、「苦しむ人の痛みを共感するところからすべてを見直し、それに基づいて判断し、行動します」という決意表明(信仰宣言)にほかなりません。

 

 

 

 

 

 こうすると、クリスチャンの生き方は、どうあるべきか、が自ずから分かりますね。

 

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