エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「私教育」と「公教育」

2016-11-29 02:10:13 | 間奏曲

 

 

 

 
大人の責任ある態度
   思い違いだらけ、ニッポン!  「がんばれ、ニッポン」。東京オリンピック招致成功この方、また、耳にする機会が多くなった掛け声ですね。でもね、今日のは......
 

 安彦忠彦先生の言葉をご紹介しますね。

 

 

 

 

 

 望まれる「公教育」は、自由で民主的な国民の、多様な「私教育」に支えられてこそ、効果を上げるのです。

 

 

 

 

 いつも上司のご機嫌伺をしているような存在では、今の空恐ろしい困難には、何の役にも立ちません。自由で、ひとりびとりの存在を大切にする人々の、「私教育」から生まれる叡智にこそ、希望がありますからね。

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インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 人品薫る母親は偉大

2016-11-29 01:59:18 | 間奏曲

 

 

 
ルターはやっぱり、「受苦的存在」
   思い違いだらけ、ニッポン!  「がんばれ、ニッポン」。東京オリンピック招致成功この方、また、耳にする機会が多くなった掛け声ですね。でもね、今日のは......
 

 またまた、Chilhood and Society p.249から。

 

 

 

 

 

 

 母親が、自分の赤ちゃんの中に、根源的信頼感を創造するのです。それも、その赤ちゃんならではのニーズに敏感であると共に、自分は世間では一人前だと固く信じている、人品薫る世話によってです。

 

 

 

 

 

 アーメン。

 

 

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発達トラウマ障害(DTD)の症状と自然災害トラウマの人の症状とは、大違い

2016-11-29 01:38:35 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
大人の責任ある態度
   思い違いだらけ、ニッポン!  「がんばれ、ニッポン」。東京オリンピック招致成功この方、また、耳にする機会が多くなった掛け声ですね。でもね、今日のは......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.144、下から2行目から。

 

 

 

 

 親などから身体的虐待や性的虐待を子どもの頃にされた人たち、最近になって家庭内暴力をされた人たち、最近自然災害を体験した人たちの3群には、明確な違いがありました。3群の両端、すなわち、子どもの頃に虐待された人自然災害に遭った大人には、特に違いが大きかったですね。子どもの頃に虐待された大人は、集中力がなく、何時でもイライラしていることをこぼし、自己嫌悪の塊です。親しい人間関係を結ぶこともできませんし、見境なく、だれかれ構わず、リスクの高いセッスクをしても満足できずにいるか、全くのインポかのいずれかである場合が多い。こういった症状は、自然災害にあった人たちには、かなり珍しかったんですね。

 

 

 

 

 

 子どもの頃に虐待された人達の苦難の大きさにただただ圧倒されそうですね。その症状はどれも深刻です。自然災害にあった人は、これほど深刻な症状の人は珍しい。

 発達トラウマ障害(DTD)と、自然災害のためにPTSDになった人の区別ができない人が、旧帝大ご出身でも、いかに無学かが、ハッキリと解かります。 

 

 

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聖書の言葉 : 「キリエ エレイソン Κύριε ἐλέησον」=理解+理解に基づいた行動

2016-11-29 00:55:20 | 聖書の言葉から

 

 

 
お喋りしなかったメーちゃんが、お喋りする幸せ
   頭と心は、良い対人関係の中で育つ  エリクソンのエピジェネティックな見方は、インドの4住期の見方と重なるところがあるのは、人の人生の巡り合わせに共......
 

 

 主にカトリックのお御堂で歌う讃美歌、讃歌に「キリエ エレイソン Κύριε ἐλέησον」があります。様々なパフォーマンスが、you tubeにあります。https://www.youtube.com/watch?v=vnYK-irutHM

 「主よ、あわれみたまえ」と訳されることが多いんですが、「あわれみ」とやってはまずい、というお話です。

 本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』より。

 

 

 

 

 スブランクニツォマイと同じような意味のエレエオー(έλεεω)という語も聖書によく出てきますが、「あわれみ」の意味に誤訳されることが多いのは残念です。

 エリコの町にいた眼の不自由な人がイエスに向かって叫んだことば、「キリエ エレイソン」(Κύριε ἐλέησον)はミサの中でも歌われ、「主よ、あわれみたまえ」と訳されていますが、これは「この苦しみ(痛み)をわかってください」という意味で、けっして「あわれみ」や同情を求めていたわけではありません。「苦しみをわかって何とかしてくれ」という、苦しみの原因を取りのぞくことを願う叫びでした。じっさい彼らは「私たちの目があきますように」(マタイ20章33節)と、イエスに具体的なはたらきを求めたのです。

 

 

 

 

 

 「苦しみをわかって何とかしてくれ」というのは、中学生の叫び見たいでしょ。だけど、ここには大事な支援の要がありますね。

 理解+理解に基づいた行動

こそが大事

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