人間として「正しいこと」も、悪い良心の餌食になりやすい
人の話を聴けないだけでなく、自分の意見だけを押し付ける人たち 今日は顔シリーズにしてみました。宇沢弘文教授、アリストテレス、そして、わが安倍晋三......
信濃町、と言ったら、何を思い出すでしょうか? 東京にお住まいの方ではないと、ピンと来ないかもしれませんね。信濃町、と言ったら、駅前にあるのは、「慶応大学病院」ですし、創価学会本部と、創価学会の様々な建物だらけ…。しかし、ここに、岩下壮一カトリック神父が建てた学生寮があったことを記憶している人は、もうほとんどいないのかもしれません。
この学生寮は、その後、カトリックのカルチャーセンターのような存在になっています。建物が最近立て直され、新生「真正会館」として再スタートしたようです。
2012年度、前の「真正会館」最後の年に、「聖書センター」の「旧約聖書入門」に参加できたことは、誠に幸いでした。ここで初めて、雨宮慧先生のお話を直接伺うことができたからです。また、カトリックにありがちな堅苦しさが、雨宮慧先生には全くないことも、嬉しい意外性でしたね。むしろ、本物のキリスト者特有の、「おおらかで自由な感じ」を感じました。それは特に、ミサに参加したときに、強烈に感じましたね。
今から12年前、NHKの「こころの時代」に「旧約聖書を語る」という、12回、月一回の講座を、雨宮慧先生が担当されたことがあります。その時に、ふつうは「義」「正義」と訳される、ヘブライ語の「ツェダカー」について、教えてくれたことがありました。私は、当時、すでに、エリクソンの著作を読み進めていましたから、エリクソンの学びと聖書の学びが、鮮やかに一致するという喜びを体験することができましたね。「そうかぁ~」「なるほどね~」と思いました。
雨宮慧先生は、この「ツェダカー」は、一般的に誤解されてるように「基本規範」ではない、と言います。そうではなく、むしろ、「関係への誠実さ」だと言います。「関係への誠実さ」は、ギリシア語、新約聖書では、ピスティス πίστιςです。ピスティス πίστιςは同時に、「信頼」も意味します。
教員は、子どもに「正しいこと」を「基本規範」であるかのように、押し付ける場合がよくあります。しかし、ほとんうに正しいことは、それとは真逆です。むしろ、正しいことは、子どもとの関係に誠実であることです。「正しいこと」を押し付ける教員に限って、子どもにも、人にも、平気でウソとゴマカシを言ったりやったりするものです。「正しいこと」を押し付ける教員は、フゥリサイ派の偽善者、と言う訳ですね。
「ツェダカー」の意味が正確に分かって、心底良かったと感じましたね。と同時に、ウソとゴマカシだらけの学校を、今一度、ツェダカーの組織、子どもとの関係に誠実な組織に変革しなくてはならない、と思います。そうでなければ、さっきのブログで記したように、「あんな教員と一緒にいたら、胸糞悪い」と言うことになりかねせんでしょ。「この先生と一緒にいるよろこび」に満ちた学校に、是非ともしましょうよ!