エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)研究 : DSM編纂と、ヴァン・デ・コーク教授の関わり

2016-11-27 05:49:43 | 間奏曲

 

 
信頼も、不寛容と残忍さに落っこっちゃう
   真理はあなた方を自由にしてくれます  子どもって、不思議な存在ですね p225の第2パラグラフ。      ...>続きを読む ......
 

 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.144、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私どもが発達トラウマ障害のことが解ってから、私どものチームは、ロバート・スピッツァ―に会いに行きました。ロバートは、DSM-Ⅲの編纂を指導してきた人で、その改定にも関わっていました。ロバートは私どもの話に耳を傾けてくれました。ロバートの話によれば、特定の患者さんたちを診て来た臨床医たちは、その患者さんたちを苦しめているものを理解する上で、かなりの専門的な知見を積んでいる場合が多い、ということでした。それで薦めてくれたのが、いわゆる臨床研究をやったらいいということでした。その臨床研究とは、トラウマを負わされた人びとをいくつかのグルーブに分けて、比較研究しなさい、ということでした。

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)関連の翻訳が、少し中断した感じがありましたから、5日振りのヴァン・デ・コーク教授の翻訳です。

 

 

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陰口を言う人が、子どもっぽい訳

2016-11-27 05:43:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
受苦せし者は学びたり
   上辺の付き合いが好きな日本人  何でもかんでも消費していると、問いを問うことを忘れちゃう。すると、自分の頭で考えることも止めて、自動人形になってい......
 

 またまた、またまた、Chilhood and Society p.249から。

 

 

 

 

 

 魂の傷のために人を悪く思うこと、得するために人の思いを自分に引き寄せることは、赤ちゃんの時にやってたことをひな形にしてんですね。赤ちゃんって、痛みを外に、悦びを内にしたがるものでしょ。

 

 

 

 

 

 ですから、30歳でも、50歳でも、70歳でも、悪口を言う人、人に媚びている人って、子どもっぽいですよね。

 

 

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笑い: 本物のクリスチャンの目印

2016-11-27 05:07:43 | 間奏曲

 

 

 
お客を騙すのも仕事の内  を卒業しようよ
   鴨武彦教授  鴨武彦教授のお写真を、インターネット上に探したけれども、見つからないので、先生の岩波新書『国際政治をどう見るか』を代わりに出しました......
 

 リチャード・コート、木鎌安雄神父様・訳の『笑いの神学』から。p115~。今宵も、筆者が改訳しています。

 

 

 

 

 

 私たちが笑うのは、神様が最初に笑ったから。

 

 

 

 

 

 クリスチャンって、真面目な人、お堅い人、学者みたいな人、…と思われるかもしれませんね。

 でも、ホントは、微笑みの人、あったかい人、やる気が移ってくる人ですよ。

 

 

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聖書の言葉: 神様を信頼すると、なぜ、山も動くのか?

2016-11-27 04:31:03 | 間奏曲

 

 

 
大人になれない、ニッポン人
  真理はあなた方を自由にしてくれます  子どもって、不思議な存在ですね p225の第2パラグラフ。      ...>続きを読む  漸......
 

 聖書(マタイによる福音書21章21節)の中に、「ほんのコレッポッチでも、神様を信頼する信頼があれば、山も動きます」と言う言葉があります。「まさか山まで自分で歩き出すのなんて、マンガだろう」と思う向きもあるでしょう。聖書がウソを言っているのでしょうか?

 本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 イエスにとって信仰とは「信頼してやつてみること」です。…「この山さえなければ」と思うのなら、神が力をかしてくださると信頼して、自分のできることからまずやってみる、そういうことです。小さなショベルとバケツでも何でも持ってきて、山の裾をけずってバケツに盛って、とことこと湖まで運び、ざーっとあける。その繰り返し、やってごらん。いつか、山は移っている。信仰=信頼してあゆみを起こすとは、そういうものなんだよ、とイエスはいっているのです。

 

 

 

 神様を信頼するって、教会でお祈りして、後は神様まかせ、ということが多いんじゃないですかね。でも、それは、神様を信頼していることとは、何の関係もありません

 神様を信頼するとは、信頼して、そのように生きること、生活すること、人と関わることですね。神さまを待ち望む」=ヒュポメノーも、ただ、教会やお御堂で、じっとしている、と考えたら、大間違い。信頼して、そのように、ひとりびとりの現場に踏みとどまって、逃げ出さないで、信頼の関わりを、人や物事と関わることですね。

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