エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人と一緒にいてホッとできた 感じ

2016-11-17 03:37:10 | 間奏曲

 

 

 
ルターの大きな落とし穴
 ルターは、自己正当化のために、聖書ををアビューズ、虐待、悪用するとき、堕落が始まりました。 Young Man Luther 『青年ルター』p.240の、第2パラグラフの......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.143、下から2行目から。

 

 

 

 

 

 誰かと一緒にいてホッとできた という思い出があれば、その幼いころの気持ちは、大人になった時の響き合う関係でも、繰り返し味わうことができます。それは、その響き合う関係が、日常的なものでも、セラピーの中のものでも、違いがありません。

 

 

 

 

 

 ここを「思い出」とやりましたが、実際には、記憶の中のものではない方が多いでしょう。

 ですから、現実には、「人といてホッとできた体験」、「人といてホッとできた感じ」と言った感じになります。この体験、この感覚が、一生を左右するほど大事になります

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 受け取る の条件

2016-11-17 03:13:31 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 

 
社会の仕組みからふるい落とされ続ける ニッポン
   人を大事にすることに社会的な可能性を信頼することこそ、合理的信頼です!!  人とのやり取りや、人を大事にすることを、社会システムに組み込んでいきた......
 

  Chilhood and Socirty p.75から。

 

 

 

 

 

 受け取ることは…、貰った物を受け止めて、受け入れることです。これが、人生で最初に学ぶ対人関係の在り方です。

 

 

 

 

 

 受け取る。見る、と同様、誠に単純。誠に日常的。

 しかし、この、受け取る、にも、途轍もない大事な意味がありますね。

 人はお腹が空いていれば、何でも食べるものだと勘違いしている人がいますね。でも、お腹が空いていても、気に入らない人からもらった食べ物は、人は食べないものですね。特に子どもはそうです。

 受け取ることは、対人関係の良さ、ぬくもりがないと、実現しないものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターメッツォ: 神様の居場所

2016-11-17 02:41:15 | 間奏曲

 

 

 
神意と人意
   最深欲求 > 黄金律  黄金律には不思議な力があることがハッキリ分かりますね。 p221第3パラグラフ。    &nb...>続きを読む......
 

  ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction、p.84. 神様は、天にいるのかしら。宇宙のかなたかな? 心の中におられるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 神様は、あの静かな囁きの中に、あの優しいそよ風の中に、あの沈黙の中に、おられます

 

 

 

 

 

 耳を、心を、澄ませていたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「見る」力 : 聖書とサイコセラピー

2016-11-17 02:01:59 | 聖書の言葉から

 

 

 
自分の使えるセラピーの方法をハッキリ示すこと
   小出裕章さんのメッセージ 東北~関東 ホントは人が住めない⁉  昨日早稲田のクラスメートの楠さんがfacebookで、小出裕章さんのメッセージに「......
 


 上智大学名誉教授で、司祭の雨宮慧先生によれば、イエスが、弟子たちと出会い、弟子たちも、クリスチャンとして生きる最初の件について、5つの要素がある、と言います。いわゆる「召命物語」には、5つの要素がある、と言う訳です(『福音書の言葉』上、p.132)。

 その2番目の要素が「見る」です。ギリシア語では、エイドン εἶδον(όρῶ  ホロー の第2アオリスト)です。この単純で、日常的な言葉と事実「見る」には途轍もない力があります。イエスが「見る」こと、イエスに「見られる」ことには、その人の人生のすべてを変えてしまう力があるからです。

 何故なんでしょうか?

 イエスが、人を見る時には、その人の≪いまここ≫を見るだけではなくて、その人の≪あとでどこででも≫も見ている訳ですね。見通す力ですね。

 私どもひとりびとりは、イエスの見通しに従う義務はありません。でも、私どもひとりびとりは、そのイエスの見通しを、「共に見る」こともできます。その時、私どもひとりびとりは、イエスに繋がる「こころ」を生きることができます「共に見る」こそが、συνείδησις シュネーデシス 「良心」です。そして、このσυνείδησιςこそが、 συν=「共に」+είδον<όρϖ=「見る」ことでしたね。

 私ども、サイコセラピストも、子どもの、クライアント自身の立場から、その子どもを、クライアント自身を「見る」、「見通す」ことによって、「共に見る」=こころを、良心を育めたら、と願うものですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする