豊かな感情と鋭い感性を育てるのは、たくさん遊んで、たくさん悦びを共有することが必要です。
p56の5行目途中から。
幼子の頃の数年が、その豊かな土壌を準備する時です。いったん、あの感情、すなわち、美しさを感じる感じ、新鮮で未知な物事にワクワクする感じ、思いやりの気持ち、かわいそうと思う気持ち、すごいと思う気持ち、大好きという気持ちが芽生えれば、自分が気持ちを感じた相手のことをしりたいなぁ、と願うもんですよね。
ホントにね。
豊かな感情と鋭い感性を育てるのは、たくさん遊んで、たくさん悦びを共有することが必要です。
p56の5行目途中から。
幼子の頃の数年が、その豊かな土壌を準備する時です。いったん、あの感情、すなわち、美しさを感じる感じ、新鮮で未知な物事にワクワクする感じ、思いやりの気持ち、かわいそうと思う気持ち、すごいと思う気持ち、大好きという気持ちが芽生えれば、自分が気持ちを感じた相手のことをしりたいなぁ、と願うもんですよね。
ホントにね。
私は小学校のカウンセラー。子どもには「遊びのオジサン」と呼ばれています。子どもたちが好きな遊びといえは、氷鬼やケイドロなど追いかけっこ・鬼ごっこ。英語ですと、chasing one another、あるいは、 playing tagになります。
先日も部屋の中で、追いかけっこ。狭いスペースだから、子どもとの距離が校庭でする時よりも近い。15人くらいの子どもたちが、男の子も女の子も参加。何人もの子どもが、「ネェネェ、私を追いかけてね」と言ってくる。〈いいよ〉と遊びのオジサン。子どもたちはキャァキャァ言いながら、逃げ回る。遊びのオジサンは、捕まえては、足払いで横にしてから、お腹をコチョコチョ…。子どもたちはもう大悦び。時間になって〈さあ、お仕舞い〉となれば、「次もやってね」〈わかりました〉。
昔から、子どもの遊びといえば、かくれんぼと鬼ごっこ。かくれんぼは以前このブログにも書きしまたように、「イナイ・イナイ・バー」の仲間で、「だるまさんが転んだ」「カンケリ」「ハンカチ落とし」など。鬼ごっこは、氷鬼、ケイドロ、高鬼など。でもね、「鬼さんこちら、手のなる方へ」は昔言った覚えがありけれども、「私を追いかけてね」といったためしがありません。自分を追いかけてもらいたい子どもが多い感じです。そして、タッチしてもらいたい感じ。自分が注目されて、追いかけられて、タッチされたい…
子どもの遊びが、自分が受け入れがたい「受け身の体験」を「能動的に再体験する」ことならば、たくさんな子どもたちが、お母さんに注目して、追いかけて、タッチしようとしたのに、それに十分に応えてもらっていない、ということになりますもんね。
今現在の日本。これが残念な現実です。
キリスト教の英雄時代は、パウロの時代らしい。
p178の第3パラグラフ。
初期キリスト教のパウロの時代について私どもが知っていることは、壊滅的な嵐の後にしか存在しない、無色透明な雰囲気を彼らは生きたという印象です。この嵐は、もちろん、キリストの受難です。キリストはすべての人のために死んだのでした。キリスト信徒たちにとっては、しばし、戦争と平和、祭りとカーニバル、興奮と懺悔という人間が繰り返すことを特色付ける、破壊と再生のメリーゴーランドはやみます。キリストの伝説が運ぶものは、あの、全うした人生と絶対的な超越です。これは人間の中に存在する最も希少で持っても力強い力です。僅かな、単純な言葉だけが、この世のゴマカシとミセカケを、ますます見透かしたのでしたが、その言葉とは、同時に子どもの言葉ですし、無意識の言葉ですし、あらゆるスピリチュアルな伝統にある、穢れのない真心から出た言葉なんですね。またもや、個人の魂が道徳的に脆いことがは、スピリチュアルな強さのまさにバックボーンとなったのでした。
実に不思議な人生の真実が明らかにされます。人が持つ脆さが、強さになる、と言うのですから。
感じることがあらゆる叡智の源です。カーソンさんとエリクソンは、この点で完全に一致しています。
p56の2行目途中から。
もしも、事実が知識と叡智を生み出す種だとするならば、情緒と感覚的な感じこそが、その種が必ず育つ豊穣なる土壌です。
情緒と感じることは、遊びの中で体験できますね。今小学校に行くと、遊びがあまりにも軽視されていることに、驚きますね。「遊びのオジサン」である私が言ってんですから、間違いありませんよ。
朝日ホールであった,「お別れの会」の写真。私も思いがけず,前の方の座席に座ることができました。ラッキー!
「ぜいたく」贅沢と言えば、何を想像されるでしょうか? 海外旅行が、すでに贅沢とは呼べないくらいになって久しい今、何を以て贅沢とするかは、意外に難しい問いなのかもわかりませんね。
人によっては、ブランドバックでしたり、一流と呼ばれるホテルに宿泊することであったり。あるいは、のんびりと温泉を楽しむことである場合もあるかもしれませんし、ご贔屓の和菓子屋さんで、お気に入りの和菓子にお抹茶がいい、と言う方も、あるいはおられるかもわかりません。私も甘党、和菓子にお抹茶が良い口です。
しかし、敬愛する加藤周一さんがおっしゃる「贅沢」は全くの別物。スケールが違います。これは、平凡社から出ている『加藤周一セレクション/5 現代日本の文化と社会』所収の「日本人の死生観」に出てきます(p122-123)。この文書は、6人の日本人エリート(乃木希典、森鴎外、中江兆民、河上肇、正宗白鳥、三島由紀夫)の生と死に対する態度を検討したものです。引用が若干長いですが、その箇所をお示ししておきましょう。
「日本のような集団志向型の社会で、その成員が集団の価値体系とは独立に、個人的に選びとった「イデオロギー」にもとづいて独特の価値観を信奉することは、その成員の生活を困難にし、安全を脅かし、極端な場合には「村八分」の危険をおかすことを意味するだろう。そういう条件のもとで、所属集団との妥協を捨て、「イデオロギー」による自己束縛の道をとるのは、おそらく社会の周縁部に生きることを決意した「エリート」だけに許されるぜいたくである。」
この確信に満ちた記述に接したときに、私は、身震いする感じ、ヌミノースを感じましたね。そして、私気付きましたよ。これは加藤周一さんの生き方そのものだということを。
論理的文書でも、自分の生き方がハッキリ出る、この加藤周一さんのような文章ほど、説得力とヌミノースを感じるものはありません。