エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「NO」とハッキリ言うことから、人間らしい我々の暮らしが始まる

2015-06-22 06:02:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人生の黄金律 : 人を大事にできるのは、自分が大事にされた分だけ
  根源的信頼感は、赤ちゃんの時の発達危機で、良い音色が響きあう時空を経験すると、身に着けることができます。今の日本では、赤ちゃんの時の、この発達危機が乗...
 

 

 法政大学の山口二郎教授が、日本を「狂気の国」と呼んだコラム(上掲)を書いたのが、去年の7月20日。それから1年ほど。この時、山口二郎教授は、日本の狂気の例を3つ挙げていました。1つは、川内原発のこと。原子力規制委員会の田中俊一委員長が「委員会は、(川内原発の)安全性を確認していない」と言っているのに、アベシンちゃんの政府は「(川内原発の)安全性が確認されたので、再稼働を目指す」という狂気。2つは、アベシンちゃんは、「武力行使はしない」というのに、「武力行使」と見なされるのが国際的なスタンダードである「機雷掃海」はやるという狂気。3つは、小保方晴子さんの「ろくに審査もせずに出した」博士号を、早稲田大学が撤回しない狂気。これは、この後10月になってから、コッソリ博士号取り消しが決定されましたが。いまや、小保方晴子さんの話題は懐かしい感さえある。

 山口二郎教授教授は、この狂気を「事実と論理によって議論を重ねて結論に至るという当たり前のことが打ち捨てられていること」だとして、その原因を「政治や学術の指導者に共通しているのは、我田引水と責任転嫁の組み合わせ」に見出しています。

 これは、丸山眞男教授や加藤周一さんが繰り返し指摘してきた、古くて新しい問題です。それは、組織や国内だけでしか通用しないことを、最も大事なことをしているかのようにやるのが、集団に埋没した日本人のルーティーンになりやすい、ということです。

 その後、日本は正気を取り戻したのでしょうか? 

 今国会の、アベシンちゃんの意味不明な言葉を聞くにつけ、狂気が深まりこそすれ、正気を取り戻したとは思えません。

 その中で、いくつかの希望があります。

 1つは、官邸前の戦争法案反対デモと集会に、多数の若者が参加していること。若者が戦争法案に明確に「NO」と言っていること。

 もう1つは、憲法学者が、戦争法案を明確に「違憲だ」としたこと、それを受けて、専門や大学の垣根を超えて、良識ある人々が、戦争法案に対して明確に「NO」と声を上げていること。

 宮田光雄先生流に申し上げれば、

 私が「NO」とハッキリ言う、故に、日本の市民が人間らしく生きることが可能になる。

 

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受け身になることの深い意味

2015-06-21 10:12:30 | アイデンティティの根源

 

 ルターの秘密の場所は、受け身であることことでした。この後は大事なところのオンパレードですので、お楽しみくださいね。ちなみに、中村雄二郎先生の「受苦的存在」も学習しておいてくださると、ありがたいところです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p207の第3パラグラフ下から。

 

 

 

 

 

 矛盾していることですが、多くの若者(と石頭の倅)が、その人ならではの領域で偉人になるのは、受け身のなることの深い意味を心から学んだ場合に限られます。受け身であることの深い意味を理解したおかげで、その人は、自分の持ち味の語りかけに耳を傾けることができます。フロイトがフリスに手紙で述べたように、「私が踏み止まらなくてはならないのは、その声が、私の耳に入るほど、私の心を揺さ振るようになるまでなんですね。bis es sich in mir ruehrt und ich davon erfahre.」。受け身のなることは、女性的かもしれませんが、現実には、ルターは、受け身のなることを、女性が身籠るという態度、すなわち、sicut mulier in conceptu であると、ハッキリと口にしていました。

 

 

 

 

 

 ルターは、受け身のなることを、女性が赤ちゃんを身籠ることに似ている、とハッキリと述べています。それは、いのち、赤ちゃんは、外から与えられ、いのちを与えられていることに気付いて、いのちを心の中で育んで、初めて、オギャア、とこの世に誕生する、というわけです。

 

 

 

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子どもの頃の空想で、青年期に騙されないコツ

2015-06-21 05:21:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エディプス・コンプレックスは、現実には実現不可能な時期で、しかし、その実現を空想できる時期に現れる不思議です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p49の第2パラグラフ10行目途中から。

 

 

 

 

 

このように、最初の本能のような願いと、それに応じて感じる「僕はダメな子」「私はダメな子」という感じは、一番強烈な子どもの葛藤と、陽気で楽しいことが一番育つこととが結びついている発達の時期に、現れるように仕込まれています。他方、空想的な願いが、「僕はダメな子」「私はダメな子」という感じとともに、どんなに強くなっても、それは、次の「潜伏する」学童期には、水面下に潜るように仕込まれてもいます。その代わり、青年期になって性的成熟が進み、その結果、直接男女の関係を求めるようになると、エディプス・コンプレックスの、異性の親を征服して、同性の親と競争したい、という子どもの時の空想の燃えカスが、理想的な英雄達や指導者達(具体的な地域や競技場をコントロールし、「劇場」や世間もコントロールします)を分かち合う世代が抱く征服と競争に対する気持ちに結びついていきます。こういったことにはすべて、本能のようなエネルギーが伴っていますし、社会秩序が、世代が再生されるときには、その本能的なエネルギーの影響力があるものなのです。

 

 

 

 

 

 ここでは、子どもの頃の征服と競争の気持ちが、若者の征服と競争の気持ちと結びつくときには、「人間を上下2つに分けるウソ」をセンセーショナルに煽る「指導者」、「尖閣を守れ」、「中国が攻めてくるぞ」なんぞという、アベシンちゃんに騙されちゃうと、「朝鮮人は出ていけ~」『中国人は死ねー」などと言うヘイトスピーチにもなり、戦争法案に「賛成」したくなる人も出てくるわけですね。ここのカラクリが分かると、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちには、騙されなくなります。

 

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勇気の出所

2015-06-21 05:08:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私はもともと泣き虫でした。怖がりでもありました。特に暗いところがダメでしたね。オバケが出るかもしれない、と思っていたからです。おばけは実は、自分の心の中にいたんですけどね。

 今日は勇気のことを記したいと思います。泣き虫で怖がりですから、私は勇気がありません。でも、それにもかかわらず、勇気を持ちたいと願って、生きています。ですから、狂気のアベシンちゃんには、ハッキリ「NO」と言いたいし、何度でも「NO」と言います。

 大学でジャーナリズムを講じている友人がいます。その彼が現政権、アベシンちゃんに「NO」と言えない。彼の話を直接聞いたわけじゃぁない。いろんな話を聴いてきましたから、ある種の絶望と不信があるのかもしれないし、もともと「NO」と言いずらい感じがあるのも分かる。でもね、権力を批判しないジャーナリズムは、お米を置いてない「米屋」と同じ。いくら小麦や雑穀を置いて、それが美味しいものであっても、お米を置いてなければ、「米屋」とは呼べないでしょ。権力を批判しないジャーナリズムが、もうジャーナリズムではないことを、当然彼も知っている。それでも「NO」と言いずらい…。

 それで、私も「勇気」のことを改めて考えてみようと思った訳ですね。

 「勇気」と言ったら、Paul Tillich パウル・ティリッヒ の The Courage to Be 『生きる勇気』を思い出します。ティリッヒは、この本の中で、ルターの勇気を取り上げています。ルターは、当時も絶大な権力者であったローマカトリックに「NO」と言った訳ですから、格別な勇気がありましたね。でも、ルターはもともと、それはそれは、激しいくらい厳しい父親に育てられた。ですから、厳しいお父さんに及第点がもらえるか、いつだって、心配だった。じゃぁ、なんでそんな心配症のルターが、あんなに勇気が出たのでしょうか?

 心配性にもかかわらず、「勇気」が出た。ルターはもちろん、神様と出会うことで、心配性にもかかわらず、「勇気」が出たわけですね。でもそれだと、神様に出会えないと、「勇気」が出ないことになっちゃうけど、本当だろうか? 神様はご自分に出会わなければ、勇気をくれないほど、ケチなのか? 神様は、もっと気前が良いはずじゃぁないのかな? 私はそう考える訳ですね。ですから、ご自分に出会わない場合でも、「勇気」をくれるはずじゃぁないのかな。じゃぁ、どうすれば、その「勇気」が出るのか?

 それはね、心配性をさらけ出しても、許される相手を、1人見つけ出すことだ、と私は考えますよ。

 

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ルターが見つけた、秘密の場所

2015-06-20 10:24:10 | アイデンティティの根源

 

 夢中になることから、信頼は生まれます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p207の第2パラグラフ下から7行目から。

 

 

 

 

 

Fides est "locus" animae 、すなわち、信頼とは、魂の中心ですし、魂の座です。これは以前から言われてきていることは確かでしょ。でもね、ルターが強調したのは、アウグスティヌスの「魂の注入」でもなければ、唯名論者たちの「服従」でも、ありませんでした。ルターが強調したのは、真実にルネッサンス的なやり方で、神が下さる心の「仕組み」において、自分の値打ちを価値ある存在と認めることでした。このlocus、すなわち、「仕組み」には、それ自体が探し求めるやり方がありまして、自分自身が受け身であることを育てている限り、その「仕組み」は続く、というものですよ。

 

 

 

 

 

 ルターは、自分が宝物だと確信する、その秘密の場所、仕組みを見つけました。それは、「自分が自分が」と、積極的に動くことじゃぁ、ありませんでした。真逆ですね。受け身を大事にすること、恵みを戴くことでした。果報は寝て待て、とはちょっとニュアンスが異なるものですね。積極的に動いてもいい。でも、それがベストではない、2番目に良いことではあるかもしれない、と知っている。一番良いのは受け身であること、恵みとして与えられる、と知っていることです。

 

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