北の浜
古くて新しい浜辺に行きましょう。 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p106の冒頭から。 ...
今日は、今現在の、被災地の心理的支援が、なぜうまくいかないのか? を考える6日目。
1日目は、無知な「専門家」が、自分の勉強不足は棚に上げといて、昔からの自分の研究の枠組みにこだわるあまり、発達トラウマの苦しむ多くの子どもたちがゴマンといる現実を無視している、と申しました。そして、その人が示す「エサ」(㌿)は、被災地の子どもたちの幸せよりも、自分の社会的地位保全の方を優先している自己中心的策謀に過ぎない、ということです。
2日目は、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもが溢れるくらいいるのに、いまのニッポンの学校教育制度は、その子ども等の傷に塩を塗りかねないものだ、と申し上げました。発達トラウマの子どもたちのセラピーを、ヴァン・デ・コーク教授らに学びながら、この日本でも確立しなくてはならないでしょう。
3日目は、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもの心理的支援を担当する心理職の配置が少なすぎる、しかも、年次契約がほとんどである、など、心理職の制度が遅れていると、申し上げています。心理職も、正規職員として、学校の一員として、発達トラウマを抱えた子どもたちと継続的に関わることが必要です。
4日目は、発達トラウマを抱えた愛着障害が重たい子どもほど、その母親も、家族も病んでいる場合が多いけれども、「重度の」母親面接までするゆとりがサイコセラピストにないかもしれない、というお話でしたね。心理職が正規職員として20対1の割合で配置されれば、難しい母親のケースもセラピーがやりやすくなることでしょう。
5日目は、おバカな教育委員会という問題です。「まぁ、こういうことにしときましょう」とばかりに、事実をねつ造することは、教育基本法の中核的理念の「人格」や、教育の核となる「真理」、そして、その組み合わせである「人格的真理」から、真逆にぶれるウソとゴマカシですから、「口裏合わせ」はやってはなりません。大事なのは、いろんな職種が対等に日常的に話し合うことです。
そして、今日、6日目は、発達トラウマを抱えた子どもにとって、最も大事なのは、最初の発達の舞台の根源的信頼感ですから、それを養うのは、ピスティス、誠実に、忠実に、子どもに向かい合う態度だ、ということです。それは、何かを教えると言う態度とは真逆で、子どもの言葉にならない言葉を、真心を込めて聴く態度です。ですから、心理職だけではなくて、教員も、教える技術よりも、≪聴く耳≫を養う方に力を注ぐ必要がありますね。教職課程そのものを、「教える技術」ではなく、「聴く態度」の養成をするものに変えていく必要がありますね。むしろ、この≪聴く耳≫を養う中でこそ、教えることも自ずから良いものになる、ということですね。
この6点が改善されると、被災地の心理的支援も、だいぶ人間らしさの回復に繋がると思いますけどね。
次回は、今現在の、被災地の心理的支援が、なぜうまくいかないのか? を考える最終回です。