ジョン・マン(万次郎)
1851年 琉球に上陸
全く言葉が通じなかった
通事(通訳)をしていた板良敷(牧志)朝忠が
密航者として 英語で取り調べを行った
その際に万次郎から得た米国情報は
1853年5月26日に来琉したペリー総督との
外交交渉に大いに役にたった
(7月8日に江戸,浦賀に来航する)
万次郎は琉球に半年間滞在している
現在の豊見城市字翁長の高安家に居置かれた
監視はあったが集落内は自由に出歩く事とは
自由で緩やかな軟禁状態だった
言語能力に長けた万次郎は半年間で方言を理解し
地元民と親しく交流していたと言われている
琉球を離れるときには
沖縄の方言で挨拶していたと言う
後に、琉球から薩摩藩に情報が入り
島津斉彬は万次郎を招き
洋学校(開成所)英語の講師とし
万次郎の指導のもと和洋折衷船越通船を建造している
その後幕府の取り調べを受けるため長崎へ
踏み絵によりキリスト教徒の是非を問われた
長期間尋問を受け アメリカから持ち帰った
文物全てを 没収された
その後土佐藩に引き取られ藩の取り調べを受けた
取り調べ中 寝泊まりしていた家の
河田小龍は万次郎の話を聞き
記録して「漂選紀略」を記している
1852年約2ケ月後に帰郷が許され
帰国から約1年半後
故郷に帰ることが出来たのは漂流から
11年過ぎての事だった
土佐藩から士分武士の階級が与えられ
帯刀する事を許された
また 藩校(教授館)の教授に任命される
1853年7月8日黒船ペリーが江戸に来航
来春再代航すると言い残し7月17日出港
来春ペリー総督来航への対応を迫られた幕府は
アメリカの知識を必要とし7月25日
万次郎を召喚 江戸へ8月30日に到着
万次郎は直参の旗本の身分と
苗字を名乗ることも許され
万次郎は生まれ育った中浜の地名
「中浜万次郎」と名乗った
1856年軍艦教授所の教授に任命され
造船の指導、測量術、航海術、数学、英語などを教えた
江川英龍の元で働きその時期に長崎で没収された
万次郎がアメリカから持ち帰った文物を返還された
1860年日米修好通商条約の
批准書を交換する使節団
勝海舟、福沢諭吉や万次郎も通訳として
その一人として臨海丸に乗船しアメリカ行く
小笠原諸島の開拓調査や捕鯨活動
上海渡航、ヨロッパ渡航 成館教授就任等々
中浜万次郎は めまぐるしく働き続ける
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