万次郎は両親が付けた名前
幼年、少年時代に「万次郎」と呼ばれた
「ジョン・マン」と言う名は救助された
捕鯨船 ジョン・ハラウンド号の船名に
ちなんで付けられた愛称
アメリカ滞在中、学校でもジョン・マンと呼ばれた
「中浜万次郎」と言う名は幕府に
召し抱えられた時に賜った正規の名前
「ジョン万次郎」と言う呼称は
1938年「ジョン万次郎漂流記」で井伏鱒二が
第6回植木賞受賞後用いられた事で
この名前が広まった
「ジョン万次郎」と言う名は
それ以後の事である
明治維新後の明治政府の
開成学校(現東京大学)英語教授に就任する
1870年普仏戦争視察団として大山巌らと共に
アメリカ経由で欧州へ その旅の途中
10月28日アメリカの大恩人
ホイットフィールド船長と
20数年ぶりに再会
身に着けていた日本刀を贈っている
11月ロンドンに着いた時に
病気を発症し仕方なく帰郷
蒸気船ダクラス号でスエズ運河を通り
東回りで帰国する
帰国後軽い脳内出血したが数か月後には
日常生活に支障が無いほどに回復
ジョン万次郎は自分の意思とは関係なく
アメリカへ行く事に成り それを受け入れ
貪欲に知識を修得した文物は
江戸幕府は長く鎖国政策で
外国の情報はほとんど無く
西洋の知識を貪欲に吸収しようとしていた
知識人や幕末の志士達に
ジョン万次郎は多大な影響を与えた
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