人生黄昏時

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石垣永将【2】

2022年02月21日 00時02分35秒 | 日記

  石垣永将は名門嘉善姓一門四代目である

父は長くジトゥデ(地頭代;村長)を務めた石垣永正と

 

側室との次男として 1580年生まれた

童名は保久利思

 

嘉善姓家譜(系図)によると 

永将は幼児期から優秀で

 

清国 留学や交易で海外に行き来し

当時の国際情勢に精通していたとある

 

当時の石垣島は 石垣間切、大浜間切

宮良間切に区分されていた

 

1611年に永将31歳の時 

宮良間切(村)のジトゥデ(地頭代;村長)任命され

宮良ペーチン(親雲上)永将と呼ばれた

 

1624年石垣島富崎の沖にスペイン船が漂着した

遭難した船にスペインドミニコ会から

 

宣教師として派遣された 

ファン・ロス・アンヘレス・ルエダ神父が乗船していた

 

永将は船員とルエルダ神父を自宅に招き手厚く世話し

日用品や食料与え 牛10頭を与えた

 

永将はルエルダ神父が熱く語る

キリスト教の教養を知り

 

世界的宗教であると悟り 

国禁と知りつつ信仰したのである

 

八重山島年代記によると隣村の

石垣ペーチン(親雲上)信本が

 

永将を王府にキリシタン宗旨を奉じていると訴えた

 

王府は小禄良宗を派遣し査問した結果 

永将は訴えどおり国禁のキリスト教を信仰していたと判明 

 

永将は宮良ジトゥデ(地頭代;村長)職は免職

渡名喜島へ流刑 財産は全て没収

 

子孫は残らず波照間島、与那国島

宮古島へ流刑となった

 

だが後に薩摩藩の知ることになり

火刑を命じられ 流刑地 渡名喜島で

 

1635年に永将は 

火あぶりの刑に処せられた流刑になってから

10年もの月日が経ってからの事である

 

後に弟もキリシタン宗旨として

三男 永弘と六男 永定も火刑に処せられた

 

琉球で初めてのキリシタン処刑で

これが八重山キリシタン弾圧事件で

現在まで語り継がれている

 

嘉善姓家譜 ・ 八重山島年代期

薩摩旧記雑録 ・ ドミニコ会殉教禄

この4つの史料から得た記録である

 

 

前回の投稿にコメント頂き有難う御座います

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2 コメント

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Unknown (ひろし曽爺1840)
2022-02-23 10:03:34
◆👴◆Akiさん・お早う御座いま~す!
💻心温まるコメントや👍いいね!を有難う御座いました。
◆天皇誕生日の今日もまんえん防止処置で外出を控え自宅でPcで遊んでいます。
(^_-)-☆本日も宜しくお願いします!
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見て頂いた感想コメントも楽しみにお待ちしていますネ。
🔶それではまたお伺いします👋・👋!
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Unknown (みゆきん)
2022-02-27 17:14:38
おーい
元気?
少しずつ春に近づいてるよ♪
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