雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記2010年1月30日(土)妻は試験、兎は家出

2010年01月30日 20時44分54秒 | 雨宮日誌
雨宮日記2010年1月30日(土)妻は試験、兎は家出

 今年も、もう1ヶ月が立ってしまいました。今日は妻N子さんは、昨年から勉強をしていた社会福祉士試験というものに挑戦して、明日の朝からの試験に遅れないように、今日から名古屋へ行きました。
 会場の吹き上げホールの近くのビジネスホテルに泊まって(N子さんがぼくに「会場の近くのビジネスホテルを探して予約してね」と言うので「はい!」とネットで探して電話して予約を取りました。ぼくに支援できるのはこれくらいですね。
 
 昨夜は仕事が休みの次女が名古屋へ何かを見に行って(演劇なのか、映画なのか知りません)遅くなっても帰ってこないで、午後11時過ぎに「今から名古屋を新幹線で出るけど浜松駅についたら迎えに来れる?」という電話でした。
 午前0時過ぎに次女から電話があったので「もう夜勤の仕事に入ったからいけない。タクシーで帰って」ということで、娘はタクシーで帰りました。横浜の架線が火事で切れた事故の影響でした。
 妻はそれで用心したのと、「ホテルで最後の勉強する」と言って、早々と午後早くに出掛けました。

 夜勤から帰って寝て、午後起きると、娘2人が外でなんだかあたふたしているので「どうしたの?」と聞くと、「豆子(註 次女が飼っている兎)がいない。たぶん倉庫の下」とのこと。
 またか、前のミントの時にもあったのに、と思いましたが、口には出さず、夕方の仕事で事務所へ。2時間くらいして帰ってくると、まだ女女と長女が倉庫の下を探していました。
 夕食の支度をする長女とバトンタッチして、私と次女で懐中電灯で照らしたり、倉庫の裏からちょうど車に乗せてある網をつっこんだりして、ようやく豆子を家に戻しました。

 夕食の後で、次女と、天王町のカーマに行って、板を買ってきて倉庫の下を封鎖しました。あー、疲れた。


 

本と映像の森3 清川あさみ絵『銀河鉄道の夜』リトルモア

2010年01月30日 04時28分24秒 | 本と映像の森
本と映像の森3 銀河鉄道① 清川あさみ絵『銀河鉄道の夜』リトルモア

 宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』を、糸や布を使ったアート作家の清川あさみさんが50枚の絵で絵本にしました。

 私は、最近新聞の日曜日の書評で読んだ記憶があったのですが、本屋さんの店頭で、この本を偶然見て「うわ、感覚的に好きな絵だな」と思って手に取って、即決で買いました。
 「布、糸、ビーズやクリスタルで織りなす宇宙」です。

「銀河鉄道の夜」の魅力は、なんと言っても、「銀河ステーション」と次の「白鳥の停車場」から始まって暗黒星雲の「石炭袋」まで、美しい天の川を汽車で旅していく楽しさでしょう。

 もう一つのテーマは、いじめられている(現代で言うハラスメントを受けている)少年ジョバンニと友だちカンパネルラの2人の主人公です。
 友だちのカンパネルラ(名前の意味は鐘(かね))と共にたどる銀河の悲しい旅です。

 「悲しい」という意味は、ジョバンニとカンパネルラは、これから、ずっといっしょに旅する「旅の仲間」ではありません。
 いろんな人たちが、生から死へ導かれる「銀河鉄道」で、ジョバンニとカンパネルラは、いっしょに乗り合わせました。でも、幸せな天国へ行くカンパネルラとは別れて一人で遠くへ行かなければいけないことをジョバンニは心の表面では納得できなくとも、心も奥底ではわかっています。

 「赤い帽子をかぶったせいの高い車掌」が「切符を拝見いたします」と来たときに、カンパネルラが出したのは「小さな鼠いろの切符」でした。
 ジョバンニが出したのは「いちめん唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの時を印刷したものでだまって見ていると何だかその中に吸い込まれてしまうような気がするのでした。
 同席していた「鳥捕り」は「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ…こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさぁ」
 
 「銀河鉄道の夜」は、大人にとっても子どもたちにとってもいろんな読み方がありますね。その違っている読み方の、それぞれが貴重なのだと思います。

 そして、ここから派生して、たくさんの物語が生まれました。たとえば、松本零士さんのマンガ「銀河鉄道999」や、大橋さんの演劇「銀河鉄道の恋人たち」などなど。

 こういう素敵な作品が、戦前の1920年代から1930年代に書かれたという点だけでもすごいです。同じ時期で言えば、金子みすずさんの詩のように、現代的人間の感覚と思考があの時代になぜできたのか、考えてみたいと思います。

 (2月2日補作修正)