雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森26 川端裕人さん著『算数宇宙の冒険』

2010年04月03日 23時21分16秒 | 本と映像の森
本と映像の森26 川端裕人さん著『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』実業之日本社、2009年11月25日初版、定価1500円+消費税

 昨年12月頃かな、高林のイケヤ書店に寄ってぶらぶら「本見」をしていたら、この本の表紙が「私を読んで!私はあなたが読む意味のある本ですよ!」と言っていたので、つい,手にとって買いました。

 「算数宇宙」と書いてありますが「数学宇宙」です。

 物語が始まるのは、東京23区の端の「都心の田舎」,桃山町です。
 主人公の語り手は、小学6年生の千葉空良(そら)で、数学よりも数学によって成り立つ音楽が好きで,歌がすてきな男の子。
 空良の幼なじみの数学好きの女の子、河邑ユーキ、バイオリンを習っている男の子紺野アラン、そして転校生の女の子那由(なゆ)、この4人が桃山町から始まって、数学宇宙に入り込み、この宇宙を成り立たせている数を守るために奮闘します。

 那由が空良にいいます。
 「宇宙は数で出来ている。数をめぐる真理は、どこにいっても真理。きっとあなたはそう思っている」「地球上でもアンドロメダ星雲の中でも1+1=2。素数のうちの最初の5つは、2、3、5、7、11。あなたはそう思っている。」(p92)

 那由の連れてきたウサギ「うさよし」が語ります。
 「宇宙と宇宙の戦争なの。より正確にいうと、別の数的実在同士の存亡をかけた戦い。」
 (p94)
  
 むずかしい公式もありますが、空良が言われるように数式を眺めて,イメージとして鑑賞するのも、入り口としてはいいのです。

 副題の「アリスメトリック!」は、もちろん「不思議の国のアリス」の少女アリスのイメージです。

 「数学の国のアリスたち」、アリスはもちろんユーキさんです。アリス役ののユーキさんの彼氏として空良くん、不思議な科学少年アランくん、そして謎の転校生少女・那由さん。
 
 やはり19世紀ではアリスの単独行動なんですが、20世紀末では「集団主人公」あるいは「主人公たち」でないと、小説が成り立たない時代ではないでしょうか。

 英語では「数論」は「arithmetoric(アリスメトリック)」、不思議の国のアリスは「Alice」で、英語ではスペルも発音も違いますが、日本語のカタカナにすると同じになるので、だじゃれ的にはすてきですね、いいですよ。

 「算数宇宙の冒険」の話なのに、算数や数学の話がまったく出てこない書評でごめんなさい。

 最終の到達点は「リーマン予想」ですが、ゼータ関数や量子カオス、ハミルトニアン行列などなど、雨宮ももっと数学を学習したいなと、おもしろく読めた小説です。


 

人間・心・集団の学習4 人間性と人格と労働・交通能力

2010年04月03日 16時54分56秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習湯4 人間性と人格と労働・交通能力

 「人間・心・集団の学習」の続きです。
 「3」で森繁久弥さんが人間を「芸+人」でとらえるようになった話を書きました。
 
 人間の中核、人間性の中心には人格(パーソナリティ)があると思うのですが、それが森繁さんのいう「人」です。
 森繁さんのいう「芸」は人間が母親の体内で誕生(精子と卵子の結合)してから、身につけて習得していく能力をさします。
 もちろん生まれながらの能力もあると思います。

 この能力は、通常、大人では「労働力(労働能力)」として扱われ、いま地球上で生きている人間の大人の多くは、この労働力を月きめ、日ぎめで契約して会社に雇われて支払われた給料で商品を買って生きています。
 そうでない、自分で生産した農産物で生きている人もいますし、自分で生産した商品を売っていきてく自営業種もいます。
 
 問題は、この労働力と人格との関係です。
 たとえば、芝田進午さん著『人間性と人格の理論』(青木書店、1961年、1990年第39刷)では、こう書かれています。

「この人間性の具体的現実存在、すなわちこれらの諸能力のにない手が,本来の「人格」(パーソナリティ)にほかならない。マルクスはいう。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」」(第6章 人間性と人格の形成、129ページ)

 そこから芝田さんは、「人格、あるいは労働能力」と、人格と労働能力を同一視します。
しかし、これはマルクスさんの労働力の定義の読み誤りではないでしょうか。

 マルクスさんは「労働力」が「人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存」すると言っているのであって、労働力は人格のことであると言っているのではありません。

 たとえばマルクスさんは同じ『資本論』のもっと前の「第1章 商品」で、こう書いています。
 「たとえば、1クォータ-の小麦=aツェントナーの鉄」「この等式はなにを意味するか?同じ大きさの1つの共通物が二つの異なった物のなかに、すなわち1クォータ-の小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,実存するということである」(Ⅰa、63ページ、原書51ページ)。
 つまり、マルクスさんは小麦と鉄「のなかに」、小麦や鉄とは異なった別のものが「実存する」と述べています。
 すこしあとで、それは「価値ー商品価値」であると述べています。
 
 もう一度,マルクスさんの文章を読みます。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」
 つまり「労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存し」ている。
 マルクスさんが労働力は人格ではないと述べていることは明白であると思います。
 ただし、「生きた人格」という用語は、単純に「人格」そのものではないようにも思います。また学習します。

 労働力は人格ではないということは、マルクスさんが労働者は労働力を限定的に契約で売るのであり、自分を丸ごと売るのではないという意味を『資本論』でも述べていることでも明らかであると思います。
 
 私は人間を2つの部分に分け、人格(魂)と能力は別のもので、人格が人間の司令塔・判断能力をつかさどる重要部分であると思います。