雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月12日(月) 「織部」のお店でお茶碗・湯飲みを

2010年04月13日 06時25分45秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月12日(月) 「織部」のお店でお茶碗・湯飲みを買いました

 イオン市野に行ったら、ボクの大好きな茶の湯武将「古田織部」の名前のついた、おしゃれなお店「織部」がありました。

 古田織部さんは、マンガ「へうげもの」の主人公で、織田信長さん、豊臣秀吉さん、徳川家康さんにそれぞれ仕えて、最後に家康さんに反抗して死を選んだ茶道武将です。

 織部さんは、美濃焼を考案し、へしゃげた陶器や、陶器に花や模様を描いた、クロスオーバーな武将芸術家です。
 詳しくは、マンガ「へうげもの(発音・ひょうげもの)」を読んでください。
 おもろいです!
 
 自分が日常的に使う、お茶碗や湯飲みは,自分の趣味の範囲内でしたいなあと思って、横で、妻のN子さんが、あきれ顔で見ているのを、横目でみながら、お茶碗と、湯飲みと、急須を買ってしまいました。
 というより、いまの自分用のお茶碗・湯飲みが、自分で選んだのではないので、ださいので、湯飲みなんかはなんとお寿司屋の湯飲みで、毎日、毎食のお茶碗や湯飲みくらいは、自分で決めたいんですね。
 「自己決定権」は一部では不評ですが、(ぼくも万能とは思いません、許容範囲があると思いますが)、それでいい範囲もあると思います。

 この前の「里山喫茶」でフルートの中村泉さんが「どんな服装で演奏するか、ネットで服を探して、まず形から入ります」と言っていたのが心に残っていて、つまり、イメージから入るということだろうなと、思いました。
 
 家に帰って、自分で選んだ「花の急須」でお茶を入れ、「花の湯飲み」で飲んでいると、なんとなく「おいしい」気がしました。

 

 
 

本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3』白水社

2010年04月13日 05時57分06秒 | 本と映像の森
本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社、2000年1月20日発行、231ページ、定価2800円+消費税

 奥野さんが批判する、日本古代史の「定説」は以下の通りです。

 ① 戦後の日本古代史の通説は、戦前の「皇国史観」と古代天皇家が朝鮮南部を支配したという「任那日本府」説を表面的には避けて否定するように見えながら,実は、それを受け継いでいる。

 ② 3世紀の卑弥呼は大和(現在の奈良県)にいて、3世紀から南朝鮮を支配する日本統一国家が成立していた。

 ③ 高句麗の「広開土王」碑文の「倭」は、近畿天皇家・大和政権の派遣軍である

 ④ 倭国の鉄は、5世紀まですべて輸入にたよっていて鉄の獲得が、近畿天皇家の南朝鮮への軍事的遠征と支配の理由である

 ⑤ 5世紀の『宋書』に出てくる「倭の五王」は、近畿の天皇のことである。

 ⑥ 前方後円墳は、近畿天皇家が、日本列島の地域豪族に、設計を配布し、その造作を許可したものである。

 このような問題について、奥野さんは、考古学の解明した事実に基づいて、この当時の流れは、南朝鮮から日本列島へ流れていくのであって、その逆ではないことを明らかにします。

 3世紀からの近畿天皇家による南朝鮮の軍事的支配という虚構は、2010年の今は、崩れ去る寸前です。

 このことを雨宮智彦は、解明して、通説に反論していきたいと思います。

 

遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)

2010年04月13日 05時19分57秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)

 4月11日(日)に、龍潭寺にも行きました。ここは、「井の国」=今の「引佐町」をすくなくとも平安時代(あるいはもっと前から)から江戸時代までの地域豪族「井伊氏」の菩提寺です。
 井伊氏の元祖・共保さんから40代の祖先をまつっています。

 ちょうど本堂の工事中でしたが、有名な、小堀遠州さんが設計した「石庭」は見ることができました。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんは、父親が豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、遠州さんは茶の湯では、千利休さん→古田織部さん→小堀遠州さんという流れの宗匠です。
 さらに、建築や庭造りにも才能を発揮したマルチタレントです。

 この小堀遠州さんが企画・設計・監督した「石庭」は、龍潭寺へ来る前に見た「天白磐座遺跡」と多くの共通点があります。

 ① 自然の中に、たくさんの石が散在していること。
 ② 中心的な巨石がいくつかあること(天白磐座遺跡では、山頂の3つの石と西南の2つの石、龍潭寺石庭では両脇と中心の3つの石)
 ③ 周囲に緑の森が茂っていて、鳥の声が聞こえること
 ④ どちらも周囲に水が流れていること(天白磐座遺跡は神宮司川が、龍潭寺石庭は人工的な水の流れが)

 ここからは推理なのですが、天白磐座遺跡では、小堀遠州さんの生きていた江戸時代まで、祭祀が続いています。
 
 小堀遠州さんが、井伊家の当主の依頼を受けて、この「龍潭寺石庭」を設計したときに、地元の人あるいは井伊家当主さん自身から天白磐座遺跡のことを聞き、実際に、この天白磐座遺跡を見にいった可能性は大きいのではないでしょうか。
 あまりにも類似点が多すぎます。

 これ以上のことは、もっと小堀遠州さんのことを調べて書きたいと思います。