雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 11月15日(金) 原因不明のネット切断

2013年11月16日 08時43分32秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月15日(金) 原因不明のネット切断

 15日(金)夜、ネットに接続しようとしたら、インターネットもメールもできなくて、慌てました。家のシステムなのか、このパソコン自体なのか?

 いま、16日朝になって再接続したら、直っていたので、原因は不明ですが、一安心。

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 かなり寒くなってきたので、「寒いよお」「寒いよお」「さみいよお」と言って、則子さんに暖かい掛け布団を出してもらいました。

 自然保育のT保育園の元職員と元園児は、寒さに強いので、ぼくはその服装を見るだけで鳥肌が立ちます。

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 久々に、高畑勲さん演出「太陽の王子 ホルスの大冒険」を手元のDVDで見ました。1968年ですから今から45年前の作品。82分。

 本のほうを以前紹介しました。 本と映像の森17 高畑勲『「ホルス」の映像表現』 2010年03月19日 04時01分04秒 | 本と映像の森 

 このアニメ映画のなかでヒルダが真っ白い雪原のなかで、雪狼に体当たりされて雪の中に倒されていくシーンは、あきらかに宮沢賢治さんの「水仙月の四日」です。

 


雨宮日記 11月14日(木) 則子さまの誕生日でしたが

2013年11月16日 08時33分39秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月14日(木) 則子さまの誕生日でしたが

 則子さんの◎◎回目の誕生日でしたが、長女に言われるまで気づきませんでした。Tさんが「私、まちに出るから何かケーキ買ってくるよ」と言って買って来てくれました。ありがとう。

 これで、3ヶ月間だけの2歳差の季節が終わり、また3歳差になりました。なかなか、差は縮まないし、追い越せないものです。

 コーヒー豆を買ってこないといけないな。このところ、湯川学博士に倣って、インスタント粉で飲んでましたから。

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 松岡正剛さんの本を再読し、さくいんを作り始めました。現代日本・日本史・日本文化論の必読文献です。ネットの「千夜千冊」は、ものすごくおもしろい。いま確認したら「1524夜」です。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 123 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか

2013年11月16日 08時27分00秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 123 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか

 以前に書いた記事です。この続きです。

 ① 遠州の遺跡・寺社・地名 118 浜北区内野の「内野神明宮」 2013年10月30日 22時36分59秒

 ② 遠州の遺跡・寺社・地名 120 東区半田1丁目の「六所神社」 2013年11月02日 22時52分27秒

 ③ 遠州の遺跡・寺社・地名 120の2 東区半田1丁目の「六所神社」の2 2013年11月02日 22時57分21秒

 『延喜式』「神名帳」には、遠江国「長上郡」で5つの神社が掲載されています。「大歳神社・邑瀬神社・服織神社・朝日波多加神社・子倉神社」ですが、ここでは「朝日波多加神社」がどこか、考えます。
 候補になるのは、これまで掲載してきた「内野神明宮」と「半田町・六所神社」の2つの神社です。

 『浜北市史 通史 上巻』は「第3章 天宝堤と岩水寺、第2節 式内社於呂神社と岩水寺創建の頃、1 於呂神社と式内社」の中でこう考察しています。公平を期すために、省略無しで引用します。

 「朝日波多加(あさひはたかの)神社 『遠江風土記伝』ほか諸本とも内野神明宮にあてている、異説に『式社考』の半田邑説、『神社…録』の飯田村説があるが、両説とも、「波多」を渡来人秦(はた)氏の居住地と見て、半(は)田・飯(はん)田の語音からの類推と考えられる。

 しかし、既述のとおり渡来人の特殊な墳墓と考えられる積石塚古墳の所在、内野古墳群の集中からも『倭名抄』幡多(はた)郷の中心は内野辺にあったことは確実であり、式内社・朝日波多加神社も内野にあったと考えてよいだろう。同社が神明社になったのは、平安末期伊勢神宮を本家とする荘園美園御厨の形成以降のことであろう。また、県史は美園御厨に隣接して宇治乃御厨を内野神明宮にあてている。

 内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」

 (p488~489)【注:( )内は『浜北市史』のルビ】
 
 まず第1点は、神社名の「朝日」ですが、『浜北市史』は、この「朝日」についてまったく触れていません。当然、これは太陽信仰の「朝日」であって、この神社の信仰と深く係わっていると思います。通常、神社名は、地名か神名かであって、信仰内容を神社名に掲げていることの意味を深く考えるべきです。

 朝日信仰である以上、この「朝日波多加神社」は、日の出の東を向いていると考えるのが常識的です。では、そういう神社は、この「ハタ地域」にあるでしょうか。あります。それが半田町の六所神社であり、まさに小高い丘の上にあって、東に面しています。この神社の鳥居から神社に朝日が直接差し込むのです。

 それに対して、内野神名宮はどうでしょうか。内野神名宮は神社が南向き、参拝者は北向きで、朝日の出る方向とはまったく関係がありません。
 
 第2点。『浜北市史』が「内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」と述べている内容はどうでしょうか。

 六所神社の鳥居には「朝日宮」という看板が掲げられていて「千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである」と言えます。

 第3点は、この六所神社の裏山が、いま浜松医大のある「半田山」であるという点です。、まさに「ハタ地域」の真ん中にある神社です。
 内野はハタ地域の中心という推定にたよった地名論議より、確実な「ハタ地域」そのものという点でも、この六所神社の方が候補としてはベターです。

 第4点は、秦氏は渡来人の系統でいうと、主にカラ・新羅の系統であって、浜北内野の積み石塚古墳は高句麗の系統で、系統が違うという点です。

 本国の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済・加羅の4国が長期に軍事対立して戦争をしているのであって、「渡来人」という概念だけでおおざっぱに考えてはいけないのではないでしょうか。

 この地方でも「有玉伝説」で有名な坂上氏は、百済系統であって、秦氏とは系統が違います。

 「内野古墳群の集中」は誰が作ったのかは不明ですが、秦氏のものと断定するには資料が足りないと思います。

 以上4つの論点により、現在のところは「朝日波多加神社」は、半田町の「六所神社」であるとしてほぼ間違いないものと考えます。

 (2013年11月14日 わが太陽の誕生日に捧げる)