第二部 生い立ちの記 Ⅰ 9 母のこと
片桐茂君は私の幼友達である。父親が谷島屋の支配人であり、私の父の上司でもあた。家も近かったので、茂ちやんと呼んで一緒に遊んだ。
最近、彼から父の古い日記が見つかったが、その中に次のような記事があったと知らせてきた。書かれた字は、のたくっていて読みにくがったが、彼が判読してくれた。
「明治四十二年十二月十三日 中谷福男君 朝来る妻君の件にて 御主人様 おさわ様 福男君の妻君の世話致し事にて八時頃伝馬町へ出かける
十二月十四日 福男君及妻君来る 十一時にて上京する おさわ様送りにゆく」
御主人様、おさわ様は谷島屋の二代目店主源三郎夫妻で、福男君は私の父であり、伝馬町は私の母、正岡里子の実家のあった所である。文面から察するに、この日に父母は、店主夫妻の世話で、簡単な祝言をして結婚し、翌日上京したようである。(「第一部 わが家のルーツ 7 谷島屋書店」参照)
父二十一歳、母十九歳であった。
母の実家は伝馬町九十番地。今の「米久ホテル」の近くで、料理屋「八百吉」の真向かいに当たる。私の青春を満足させてくれた映画館「吾妻座」の近くでもあった。
伝馬町は東海道筋に当たり、江戸時代に人馬の継ぎ立てなど、一切の公事を司る伝馬役が置かれたことなどからその名がついた。本陣、脇本陣なども置かれ、宿場町としての浜松の中心であった。それに伴い、旅籠屋・貸座敷・置屋・料理屋などが軒をつらねて、それは隣の旅篭町にまでも及んだ。
母の実家はそのなかの貸座敷の一軒で、「和泉楼」といった。当時、伝馬町には紙屋・島屋・米久・おもだか屋・駿河屋・川崎楼・池田屋など著名な貸座敷があった。
明治六年二月の浜松県令林厚徳による「娼妓並貸座敷渡世之者心得」によると、娼妓は鑑札に三十銭、月に税金一円五十銭。貸座敷は鑑札に二十銭、月に一円の税金を納めねばならなかった。母が嫁いだ時には、父は既に亡く、店も廃業して長兄が正岡家を継いでいた。
「和泉楼」で亡くなった娼妓たちは、母の実家ー正岡家の菩提寺の西見寺(平田(なめだ)の踏切の近くにあったが、今は入野の西鴨江町に移った)に葬られている。
旧幕時代から浜松の発展に寄与して来た伝馬町・旅篭町の花街も、時代が移ると薄情なもので、市の中央にあっては町の発展に支障を来すとか、風紀上好ましくないと、大正十二年、鴨江町に集団移転して双葉遊郭となった。