雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州の遺跡・寺社・地名 95 磐田市の「長者屋敷」遺跡

2012年10月18日 05時53分43秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 95 磐田市の「長者屋敷」遺跡

 銚子塚古墳・小銚子塚古墳の少し南に「長者屋敷」遺跡があります。ここでは旧石器時代の遺跡、縄文時代の集落跡、そして奈良時代の、推定「郡衙」跡とされています。

 小字(こあざ)の地名で「長者屋敷」という地名があったので、以前は中世遺跡と考えられていたようですが、発掘で古代のものであることがあきらかになりました。

 「匂坂上原」信号から北へ車で走ると、浄水場のすぐ南側、道の右側(東側)に長者屋敷遺跡があります。車を数台止めることができる草むらの駐車場があります。

 今は長方形の土塁跡とその内側の壕跡を見ることができます。東西約100m、南北約80mの大規模な土塁です。

 なぜ「郡衙」がこんな、まるで軍事要塞的な「土塁」と「壕」で囲まれないといけないのか、戦争でもしていたのでしょうか?「郡衙」跡で、こういう例はあるのでしょうか。

 「謎」に満ちた「屋敷」跡です。

 統一国家ができた奈良時代(701年以後)ではなくて、もう少し前の時代で、軍事争乱が予想された時代のものではないのか、検討が必要ではないでしょうか。

 詳しい説明では「7~8世紀」という文献もあるので、7世紀なら奈良時代以前になります。

 壕が南側だけ、土塁の外にも築かれているのは、攻撃してくる「敵」が南から上陸して攻めてくるのを予想しているということでしょうか。

 たとえば磐田の地方権力が、7世紀後半に、中央のヤマト国家(統一以前の)との戦争を想定して築いたとか。もしかしたら壬申の乱の頃とか。

 あまり「古代史幻視」に走らずに、報告書などを見て物証を探したいと思います。

 銚子塚古墳や小調子塚古墳の間近にあるのは、やはり集落的には関係があると見るべきだと思います。

 調子塚古墳を築いた地方権力と、長者屋敷を築いた地方権力は、同一の地方権力と見るのが地理的には妥当ということでしょう。考古学的な物証があるといいのですが。

 

 


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