郷土史の片隅に 1 詩人峠三吉さんと静岡市 20201216
「郷土史」とういうのは古い言い方で今は、はやらないかも知れませんが、ここではその範囲を2020年現在の浜松市・静岡県を中心とする範囲としておきます。話が三河地方や愛知県・長野県・神奈川県へ行ってもいいということでお願いします。
「郷土史の片隅に」という呼び方は、もちろんアニメ映画「この世界の片隅に」へのオマージュです。
なお古代史のことは「遠州古代史」のなかで扱います。ここでは中世史・近世史・近代史・現代史・未来史の範囲です。
今日が第1回。
郷土史の片隅に 1 詩人峠三吉さんと静岡市 20201216
「にんげんをかえせ」で知られる原爆詩人峠三吉さんと静岡とのかかわりは、ほとんど知られていないと思います。
増岡敏和著『原爆詩人 峠三吉』という新日本新書があります。1985年発行の本です。いまはAmazonなどで古本で探してください。
1952年の峠三吉さんの活動を妻の和子さんは、次のように手記に残しています。
「1952年峠にとって命を賭けた最後の闘いの年となった。原爆を受けた広島として、病人でありながら平和運動の為に休む事無く働き続けなければならない峠であった。
2月、国鉄全国大会への原爆展を依頼され恰度来広中の赤松俊子さんと面談中喀血、翌3月、文学戦線統一の重大性を思う故に推されて新日本文学会全国大会参加の途中で喀血。静岡文学会支部、民主グループの手厚い看護を受け、1ヶ月療養後上京」(p198)
増岡敏和さんは、そのあと次のように詳しく書いています。
「三吉は上京途中汽車の中で喀血し、下車して静岡日赤病院に入院するはめになった。そして入院直後大量喀血をし、また死に瀕した。新日本文学会静岡支部や全日自労静岡支部は救援活動をおこし、それを伝え聞いた新日本文学会広島支部と合同して峠三吉救援活動委員会を結成、全国に檄をとばして活動する。そうした力と療養のせいでかれは回復し、1ヶ月後に退院する。」(p200)
この「静岡日赤病院」は静岡赤十字病院として、JR静岡駅から大通りを北へ左側を歩いて、市役所を過ぎて産業経済会館へ行くすぐ手前にあります。
1952年当時、おなじ場所にあったか、峠三吉さんが入院したり、救援活動を静岡市民がしたことを直接体験した方や文献はないものでしょうか。
「郷土史」とういうのは古い言い方で今は、はやらないかも知れませんが、ここではその範囲を2020年現在の浜松市・静岡県を中心とする範囲としておきます。話が三河地方や愛知県・長野県・神奈川県へ行ってもいいということでお願いします。
「郷土史の片隅に」という呼び方は、もちろんアニメ映画「この世界の片隅に」へのオマージュです。
なお古代史のことは「遠州古代史」のなかで扱います。ここでは中世史・近世史・近代史・現代史・未来史の範囲です。
今日が第1回。
郷土史の片隅に 1 詩人峠三吉さんと静岡市 20201216
「にんげんをかえせ」で知られる原爆詩人峠三吉さんと静岡とのかかわりは、ほとんど知られていないと思います。
増岡敏和著『原爆詩人 峠三吉』という新日本新書があります。1985年発行の本です。いまはAmazonなどで古本で探してください。
1952年の峠三吉さんの活動を妻の和子さんは、次のように手記に残しています。
「1952年峠にとって命を賭けた最後の闘いの年となった。原爆を受けた広島として、病人でありながら平和運動の為に休む事無く働き続けなければならない峠であった。
2月、国鉄全国大会への原爆展を依頼され恰度来広中の赤松俊子さんと面談中喀血、翌3月、文学戦線統一の重大性を思う故に推されて新日本文学会全国大会参加の途中で喀血。静岡文学会支部、民主グループの手厚い看護を受け、1ヶ月療養後上京」(p198)
増岡敏和さんは、そのあと次のように詳しく書いています。
「三吉は上京途中汽車の中で喀血し、下車して静岡日赤病院に入院するはめになった。そして入院直後大量喀血をし、また死に瀕した。新日本文学会静岡支部や全日自労静岡支部は救援活動をおこし、それを伝え聞いた新日本文学会広島支部と合同して峠三吉救援活動委員会を結成、全国に檄をとばして活動する。そうした力と療養のせいでかれは回復し、1ヶ月後に退院する。」(p200)
この「静岡日赤病院」は静岡赤十字病院として、JR静岡駅から大通りを北へ左側を歩いて、市役所を過ぎて産業経済会館へ行くすぐ手前にあります。
1952年当時、おなじ場所にあったか、峠三吉さんが入院したり、救援活動を静岡市民がしたことを直接体験した方や文献はないものでしょうか。