雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・本と映像の森 195 ル=グウィン『ゲド戦記』岩波少年文庫

2018年10月19日 14時13分10秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 195 ル=グウィン『ゲド戦記』岩波少年文庫

 題名の「戦記」はまったく小説の中身にふさわしくない。「ゲド○○」とすべきだ。宮崎駿さんが「もののけ姫」を「アシタカ (せっ)記」としようとしたように。

「2010年05月31日 06時10分48秒 | 本と映像の森
本と映像の森44 ル=グウィンさん『ゲド戦記1 影との戦い』岩波少年文庫、岩波書店、新版2009年1月16日第1刷、318p、定価720円+消費税

 「ことばは沈黙に
  光りは闇に
  生は死の中にこそあるものなれ 
  飛翔するタカの
  虚空にこそ輝ける如くに」

「ゲド戦記」の第1巻です。裏表紙に書かれたストーリーは以下の通りです。

 「アースシー(地海)のゴント島に生まれた少年ゲド(通称ハイタカ)は、自分に並みはずれた力がそなわっているのを知り、真の魔法をまなぶためにロークの学院に入る。進歩は早かった。得意になったゲドは,禁じられた魔法で、自らの<影>を呼び出してしまう。」

 ここまで書いたところで、N子さんと娘のIさんが「1巻、貸して」と来たので、しばらく手元を離れていて、やっと帰ってきました。
 
 原題は「A WIZARD OF EARTHSEA」ですから、「地海(アースシー)の魔法使い」という直訳になります。

 ゴント島の「北谷」の奥の「10本ハンノキ」村で生まれたダニーさんはまじない師である叔母さんから鳥やけものをあやつる魔法を習い、「ハイタカ」と呼ばれるようになります。
 ハイタカさんが12才になった時、ゴント島の東方の「カルガド帝国」の軍隊が島を襲います。ハイタカさんは村を守るため霧をあやつる魔法を使い、村民を救います。
 その噂がゴント島にいた大魔法使いの「沈黙のオジオン」さんの耳に入り、オジオンさんが弟子にならないかと、ハイタカの元にやってきて、13才で「ゲド」という真の名前をオジオンさんからもらい、弟子入りします。

 二人の会話はこうです。

 オジオン「魔法が使いたいのだな」「だが、そなたは井戸の水を汲みすぎた。待つのだ。生きるということは、じっと辛抱することだ。辛抱に辛抱を重ねて人ははじめてものに通じることができる。ところで、ほれ、道端のあの草は何という?」
 ゲド「ムギワラギク。」
 オジオン「では、あれは?」
 ゲド「さあ。」
 オジオン「俗にエボシグサと呼んでおるな。」
 ゲド「この草は何に使える?」
 オジオン「さあ。」
 ゲドはしばらくさやを手に歩いていたが、やがてぽいと投げ捨てた。
 オジオン「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においをかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから。用途などより大事なのはそっちの方よ。そなたのように考えれば、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな?海はどうだ?」
 オジオン「聞こうというなら、黙っていることだ。」

 修行中のゲドは、アルビの領主の娘の誘惑と挑発に乗ってしまい、オジオンが秘蔵していた『知恵の書』で「影」を呼び出してしまい、ゲドが影から逃げて逃げまくり、そして後半から、影を逆に追い詰める、長い長い、旅が始まります。
 
 ゲドが、自らの影に食い散らされ支配されることを救ったのはなんだったのでしょうか。

 それは旅の道連れになった、小動物のオタク(ナウシカのテトのように)であり、
 道端のムギワラソウであり、エボシギクであり、
 最後の「狩り」の旅につきあうことになった親友の魔法使いカラスノエンドウであり、
 カラスノエンドウ一家の弟のウミガラスや妹のノコギリソウと過ごした時間
 ではなかったでしょうか。

 けっきょくのところ、一人ひとりの力は、そういうところからしか、発しません。
 心の中に何も守るべきもの、大事なものがない人間は、最初から虚無を生きているのではないでしょうか。
 ゲドは、地位や名誉や権力や支配力を追い求める衝動(影)を押さえ込んで、自分自身を取り戻したからこそ、ゲドでいることができたのではないでしょうか。

 最後の「世界の果てへ」の旅の前の会話。

 ノコギリソウ「これだけは教えて。もしも、秘密でないことだったら。光り以外に大きな力というと、ほかに、どんなものがあるの?」
 ゲド「それだったら、秘密でもなんでもないよ。どんな力も、すべてその発するところ、行き着くところはひとつなんだと思う。めぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも、水も、風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、みんな、もとは同じなんだ。わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、まだ生まれていない子どもの真の名も、みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大なことばの音節なんだ。ほかに力はない。名前もない。」
 ウミガラス「死は?」
 ゲド「ことばが発せられるためにはね」「静寂が必要だ。前にも、そして後にも」

 ゲドの行為(する人生)ではなく、ゲドの存在(いる人生、ある人生)に共感します。 
 
 、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムさんが「音楽は、沈黙に始まり、沈黙で終わる」という意味のことを語っていたことを思い出しました。
 バレンボイムさんは、著書もあり、その中で「日本人は沈黙の意味をよく知っている」と過大評価してくださっているようです。
 たぶん、曲が終わった瞬間に、間髪を入れず大きな拍手をするような欧米の観客にうんざりしていたんでしょうね。
 バレンボイムさんは、ユダヤ教徒ですが、イスラエルとパレスチナの和解のために、ガザで青少年によるコンサートを企画した、とてもすてきな人です。」
 


「本と映像の森45  ル=グウィンさん『ゲド戦記』と『ナウシカ』
2010年06月03日 05時17分28秒 | 本と映像の森

 だから、どうなの?と言われそうですが、『ゲド戦記』が宮崎駿さんのマンガ『風の谷のナウシカ』の原形の一つであろう、ということを確認できました。

 最初に、ん?と思ったのは、『ゲド戦記第1巻 影との戦い』で、ゲドが、小さな動物の「オタク」と出会い、いっしょに生き始めるところでした。
 あれ?こいつ、ナウシカが出会ったキツネリスの「テト」と同じじゃん、と思いました。
 しかも、主人公の旅の途中で、オタクもテトも死んでしまうのまで同じです。

 ゲドがあとの巻で体験する、死者の魂の行く、砂漠のような、闇の土地は、ナウシカでも出てきます。ナウシカは、ドルク帝国の「皇兄」の魂を破滅から救うのですが、感覚的に『ゲド戦記』と同じです。

 そして、ナウシカが自分で名付けた「巨神兵」の「オーマ」は、ナウシカを「母さん」と呼んでいて、まるで、テルーが、翼あるもの「竜」から「わが娘」と呼ばれるのと、同等です。

 ナウシカは、ドルクの墓所から流れ出ている太古の技術を破壊して、世界を変えにいくのと同じように、竜の娘・テルーやその旅の仲間たちは、世界を変えに行きます。

 ただ、違うのは、ゲドの世界が科学技術の以前の、魔法の世界なのに、ナウシカの世界は、生命技術などによる科学技術の世界です。

 宮崎駿さんの作品で「ナウシカ」の後では、やはり「ハウルの動く城」が、「ゲド」と同じように、魔法を全面展開した世界です。
 魔法で変身の術を使いすぎると、元の人間である自分に戻れなくなる、ということまで
同じですね。

 これでは1割程度しか、紹介しきれません。
 また、いつか、どこかで語りたいと思います。」


「本と映像の森48 宮崎吾朗さんアニメ『ゲド戦記』
2010年06月08日 05時26分29秒 | 本と映像の森

 「ゲド戦記」全6巻を読んでしまったので、仕方なく、ツタヤ高林店で、アニメ映画「ゲド戦記」を借りてきて、初めて見ました。
 
 第1印象は、はて、確かに、原作「ゲド戦記」のアレンやハイタカやテナーやテルーは出てくるが、配役はともかく、これが「アースシー」世界か?と言われると、似て非なる世界ではないでしょうか。

 「アースシー」世界が生き生きと成り立っているのは、ゲドやアレンやテナーが、風が吹き、星がまたたき、花が咲き、草がそよぐ「現実世界」と深く交流していることからです。
 第1巻でも、ゲドは「影」を呼び出してしまった後、深く反省して、自然や動物との交流をすごくしています。

 同時に、第1巻「影とのたたかい」のゲドや、第2巻「壊れた腕輪」でのテナーは、そこで自立して、あるいは他の人間への寄りかかりを拒否して、自分自身を取り戻していることです。

 こう書いてきて、わかりました。
 つまり、肯定すべきものと、否定すべきもの、ですね。

 単純に言うと、自然の肯定と、人工の否定、ということでしょうか。
 生と死の肯定、と言ってもいいでしょうか。

 今日は、まだ思考過程です。
 もっと、もっと、N子さんや旅の仲間たちと論議していきたいと思います。

 アニメ「ゲド戦記」のいちばんの問題は、自分の影とのたたかい(原作第1巻)と、自分の自立(原作第2巻)と、生と死の問題(原作第3巻)、あるいはそのあとの(原作第4巻から6巻)、それらを、ぜんぶまとめて、いっっきょに、解決しようとしたことではないでしょうか。
 
 原作で読む限り、作者は、一歩一歩、のろいくらいの歩みで、階段を上っていくようです。

 それは、ぼく雨宮や、妻のN子さんの人生と同じです。
 すこしづつ、すこしづつ、歩いて行きます。
 でも、30年も立てば、少しは歩いてきたなと、言えるかな。」


「雨宮日記 6月15日(火) 対話「ゲド戦記とアースシー世界1」
2010年06月17日 06時00分24秒 | 雨宮日誌

 以下、ねたばれがありますので、実際に読んでから、ここを読んでください。

 「N子さん、いま、どこまで読んだ?」
 「第6巻の途中まで、早く読み終わって、ちゃんと仕事を探さないと」

 「第1巻の「ゲド戦記」の結末は、ゲドと、ロークでの同窓生の魔法使い・カラスノエンドウの共同作業だよね」
 「ええ、そうね。カラスノエンドウは、ゲドの苦悩の見届け人だけど。」
 
 「ゲドは、影と対決して、何が変わったんだろうか?」
 「それは、物語では書いてないけど」
 「もし、ゲドが最初のように、影から逃げて逃げるだけだったら、どういう結末になっていたのかな?」
 「それは、結末はないんじゃない?」
 
 第1巻は、自分を壊して、影と合体して新しい自分を創造する、つまり自分を壊すことで自立する話。

 第2巻は、テナーにとって居心地のいい自分の居場所をゲドと協力して壊してしまう話。

 第3巻は、ゲドとアレンが共同して、この世界のほころび、穴をふさぎにいく話。

 うわ、とても書ききれません。次へ続きます。」


「本と映像の森53 ル=グウイン「ダークローズとダイヤモンド」
2010年06月26日 05時41分36秒 | 本と映像の森

 ル=グウインさんの連作『大地海シリーズ』、日本語訳『ゲド戦記シリーズ』、岩波少年文庫版では、第5巻『ドラゴンフライ ーアースシーの5つの物語ー』は、6巻のうち唯一の短編集です。
 
 「ダークローズとダイヤモンド」は、今までぼくが読んできた限りでは、時代順のどこに入るのかよくわかりません。
 何か、ヒントがあるかもしれませんが、まだ読み取っていません。

 これは、恋歌です。
 ダークローズ(暗い薔薇)という若い女性と、ダイヤモンドという若い男性の恋歌です。

 「愛しい人の行くところ ともに私も おもむかん
  愛しい人の こぐ方(かた)へ ともに私も こぎゆかん

  ともに笑って ともに泣き
  ともに生きて ともに死ぬ

  愛しい人の行くところ ともに私も おもむかん
  愛しい人の こぐ方(かた)へ ともに私も こぎゆかん」

 英語の原詩と楽譜が掲載されていたので、意訳ではなく、直訳をしてみました。

 「私の恋の行くところへ 私も行こう
  彼のボートのこぐところへ 私もこごう

  私たち ともに笑って ともに泣き
  彼が生きれば 私も生き
  彼が死ねば 私も死ぬ」

 これはダークローズの歌なので、蛇足ですが、ダイヤモンドの歌も勝手につくってみました。

 「ぼくの恋の行くところへ ぼくも行こう
  彼女のボートのこぐところへ ぼくもこごう

  ぼくたち ともに笑って ともに泣き
  彼女が生きれば ぼくも生き
  彼女が死ねば ぼくも死ぬ」

 1人ひとりが、自分のボートを自分でこいで、二人で、同じ方向にボートをこぐ人生って、好きなイメージです。

 「一人ひとりが自分自身の船長」で、おたがいに針路を教え合って相談することはできるけど、その針路を操縦して維持するのは、自分しかいないのですね。
 そうですよね?N子さん。

 この浜松市内の北区三ヶ日町の「静岡県立三ヶ日青年の家」での、ボート事故がありましたが、だれかが決定したことに言いなりに従って、嵐の海に、ボートを乗り出すのはすごく危険です。
 ほんらい「学校教育」は、そういう時の判断基準をもち、判断決定のできる人間を形成するのが目標のはずと想いますが、何かが違ってきているのでしょうね。」

 


「哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」
2010年06月23日 05時42分53秒 | 人間・生命・宇宙

 前回「哲学の学習17」で「狭い意味の平和」と「広い意味の平和」を考えましたが、それに関連して、「幸福」について考えます。

 「幸福」論は、たぶんいっぱいあって、まともに読んだことはないのですが、一つは、くらしが豊かで、戦争もなく命が安全であれば「幸せ」であるという、ある意味、物質的な幸福論と、いや「物よりも心だ」、「心の幸せ」さえあれば、物はいらないんだという2つの理論が対立して遊離しているように思います。
 
 私が思うのは、まず基礎(ベース)にあるのは、「いのちとくらし」、つまり一人ひとりの身体と命とくらしという物の一定の安定という「物の幸福」、それが基本ではないでしょうか。
 
 ただし、その「物(身体と命と暮らし)の幸福」は、
 ① 物の最大限の追求が目標ではなくて、その人の最小限の必要の内であること
 ② 「物の幸福」の上に成り立つ「魂と心の幸福」とバランスのとれていること、が必要であるということでしょうか。

 「魂と心の幸福」は、2つの側面があって、一つは、自分の最深の心の奥の魂が自分で決めて生きていること、もう一つは、その魂と心が、他のたくさんの魂との台頭平等の交流・つながりで生きているかどうか、です。
 
 そういう微妙なバランスを崩してしまうと、人間って歪んでしまって、他人を支配しようとしたり、他人や社会や自然を犠牲にしても最大限の自己の追求をしてしまうのではないでしょうか。

 大事なのは「均衡」だと、『ゲド戦記』でも言っていましたね。

 でも『ゲド戦記』では「すべてが変わるのだ」と(オジオンが)言っていますから、どっちなんだ?!ということにもなりますが、ぼくは「両方」だと思います。
 答えになっていませんが、直感では、ということです。

 いまの結論としては、ほんとうの幸福は、他人や、社会的条件に左右されないのではないでしょうか。

 19世紀の科学者にして革命家のカール・マルクスさんは、「超貧乏」でした。なにしろ、貧乏すぎて死んだ息子の棺桶の板を買うお金すらなかったそうです。
 「マルクス・エンゲルス全集」の書簡集を読むと、親友のエンゲルスさんに「金おくれ」の手紙がたくさんあります。
 では、マルクスさんの人生は貧困にまみれて不幸だったのか?
 そんなことは、言えませんよね。
 
 つまり、貧乏(収入)と幸福は比例しません。
 我が家も貧乏ですが、幸福です(というと怒る人がいると思います。いわく「革命的精神を忘れたのか」「革命なしに幸福はない」)。
 
 そういう方には、物の幸福と、心の幸福というバランスをどう取るのか、それが崩れると、どうなるのか、よく考えていただきたいと思います。
 
 物の幸福を否定せずに、心の幸福も尊重していきたいと思います。

 これは理論ではありません。
 いろんな文化・芸術を、みなさん、感じて、自分で考えてください。

 他の「幸福論」をもし読んだら、再論します。」

 

「本と映像の森63 ル=グウィン『ゲド戦記 3 さいはての島へ』
2010年07月23日 04時47分55秒 | 本と映像の森

 5月31日付け「本と映像の森44」で「ル=グウィンさん『ゲド戦記1 影との戦い』」を紹介しました。

 「ゲド戦記」の中間総括が、この「さいはての島へ」でしょうね。
 大賢人であるゲドがいるロークにやってきた北の島・エンラッドの王子・アレンが世界の異変を語り、ゲドはアレンとともに、ロークを舟で出発します。

 なにが「ゲド戦記」の魅力かといったら、やはり、1巻の「影とのたたかい」では、ゲド自身がアースシー(大地海)世界を1人で旅していく(最後は顔なじみのカラスノエンドウといっしょに)ことや、2巻の「こわれた指輪」は同じ場所で、テナーがゲドの援助で、自らの心を旅していくこと、第4巻「帰還」では、これがテナーと(血縁のない)娘テハヌーの島内の旅になります。

 第3巻のなかでも、魅力的なのは海の上でいかだで過ごす「外界の人々」でしょうか。クジラやイルカや魚と戯れるこの海の民は、どちらかというと、たぶん、日本の古代に実在した「あまぞく」に煮ているのかも知れません。
 「あま」を漢字で「海女」とも「天」とも書きます。
 もちろん、「雨宮」の「雨」の語源です。

 第6巻「アースシーの風」では、アレンの王宮に集まってしまった人々、女たちや男と達がみんな、アレンの舟で、ロークに向かうことになります。
 そういう意味では、1人で解決する第1巻や、2人で共同で解決する第3巻もいいけど、みんなでよってたかって、ロークの魔術もごっちゃにして解決しようとする、混沌(カオス)のような第6巻がいちばん好きです。

 「さいはての島へ」は、命と死を自分の支配下におこうとして人々と世界をあやつる魔術師クモに、ゲドとアレンが対決して、生と死の境界にあいた穴を閉ざそうとする話です。
 
 ゲドが語る言葉をずっと聞いていると、「命ってなに」「死ってなに」ということが、だんだんと見えていきます。
 ぼくが紹介するより、みなさん1人ひとりが、実際に本文を読んで、物語の傍聴者・あるいは主人公になり、それを感覚してほしいとおもいます。

 全文360ページをよむ意味はあると思います。
 ぼくは、何回も読みます。
 それは、自分の人生を、何回も何回もくりかえし、そして、これでいいの?と問い返すようなものです。

 今日はもう言えませんので、いくつか引用します。
 ゲドがアレンへ「存在の泉は深い。生よりも死よりも深い…」(3巻、p306)

 ゲドがクモへ「そなたはそなた自身を救うために、緑の大地も、太陽も、星も、みんな売ってしまったんだ。だが、今そなたに自己と呼ぶべきものがあるか?ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ…」

 うわ、怖いですよね。みなさん。でも一度売ってしまったものは、もう2度と自分のところには戻って来ません。
 そういう変質と腐敗については、最近、親しい仲間同士でいろいろ論議していますので、また何度も書きたいと思います。
 聞きたくない人も多いかと思いますが。

 ジプリアニメ「ゲド戦記」のような、心の奥深くまで入らない、表面的なお話と解決なら、この世はすべて何もなし、なのですが。
 あれでは、龍の子・テハヌーの存在意味がありません。
 わが妻・龍の女神のN子さんの存在意味がありません。
 
 アメリカ人であるル=グウインさんは、たぶん知らないと思いますが、古い日本神話では、川や水のそばの女性が龍あるいはヘビであるのは普通なんですね。
 
 そういう日本神話をしらない日本人が増えれば、日本は確実に滅びますね。
 もしかしたら、滅びると言うより、「アースシーの風」で描かれたように、何かが変わって、アースシー世界も、日本も、劇的に変わっていくのかもしれません。」

 


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