雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月26日(木) ベキベキ通信・ネバネバ通信

2010年08月27日 04時56分25秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月26日(木) ベキベキ通信・ネバネバ通信

 日記で「よい社会をつくるには、一人ひとりがよい発信を」と書きました。
 夜、N子さんが会議から帰って来て、いろいろ話しましたが、感じたことを書きます。

 「本と映像の森」で書きましたが、清水真砂子さんの『本の虫ではないけれど』を読んだときに、清水さんは、以前は「べきべき人間」だったと書いてあって、N子さんと「ほら、同じ事を考えている人がいる!」とびっくりしました。

 もう「みんなで、これをすべき」とか言う「べきべき人間」や、「これをせねば、だめだ」とか言い張る「ネバネバ人間」のような幼虫時代からは脱皮したいと思います。

 そうではなく、会議は一人ひとりの意志を確認しあう場でありたいです。
 「わたしはこれをしたい」という意志とか「これをしたらどうでしょうか」という提案なら、いいのですが。
 自分の意見だけが正義であるかのような「べき」「ねば」は、事実と大地に立脚しない、宙に浮いた架空の「正義」だと思います。

 誰かが「べき」「ねば」と言っても、みんなが対等平等であれば、それに賛成するか、反対するかはそれぞれの自由なので、かんたんにそういう「正義」意見が通ることはないのですが、そうでない組織では、反対意見を言うのはむずかしいでしょうね。
 ぼくは、平気で反対意見を言いますが(それで、よく浮きます)。

 「勝つためにはこれをすべき」「負けないためにはこれをせねば」という意見は、「そうしないなら、だめ」という押しつけの否定がくっついています。
 自分の意見が否定されることを最初から拒否している意見は、現代の民主主義(をめざす時代)にそぐわない、遅れた保守的な潮流であると思います。
 
 自分の意見が否決されることもありえることを念頭において行動できるかどうかが、民主主義者の基準ではないでしょうか。

 写真は、馬込川の散歩の途中で川の階段で休むぼくたちの影。
 
  

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。